チョコレート戦争

 ふわふわともやのように流れ出す疲労感が、あくびの形をして宙にこぼれ落ちた。
 両の手のひらを組んでぐっと天井に向けて伸ばし、背もたれに体重をかけると、長いこと同じ姿勢で固まっていた肩やら腰やらの筋肉が、ぎちぎちと引き伸ばされる。
 痛い。
 ついでにぐるぐると首を回すと、ごきごきといい音が鳴った。嫁入り前の娘としては、などといういい回しも時代がかっているが、あまり人にいいたい状態ではない。
 首の回転を止めると、後ろでまとめている髪が慣性に従ってばさりと顔に衝突する。
 痛い。
 空腹感にベッドの上の目覚まし時計を見ると、猫のひげが日付が変わったところだと教えてくれた。誰からもらったものかはいうまでもない。
 夕食から五時間、小腹が空いても当然の時間だ。なにか適当に食べよう。そう決めて部屋を出る。
 電灯が消してあるために廊下は真っ暗で、季節を反映して空気はとても冷たい。息もきっと白いだろう。もうとっくに寝てしまったのか、隣の部屋のドアの隙間からも明かりは漏れてこなかった。
 《真っ暗だと怖くて歩けないの》という歳でもないから、明かりをつけないままとんとんと足音を立てて階下に降りた。
 まだ母は寝ていないのか、キッチンは明るかった。なにやらがたがたと鍋か食器がうるさくしていて、胸やけしそうなほど甘いにおいまで立ちこめている。
 いちおう女の子の端くれだから甘いものがまるでだめということはないが、甘ったるいにおいが好きなわけでもない。チョコレートでいうならミルクよりもビター。
 においだけで満腹感を味わえそうだと思いながらキッチンをのぞくと、そこでは冗談のようなフリルがついたエプロン姿の高校生が、鍋やボールを相手に奮闘していた。
「うー、失敗しちゃったよ……」
「爆発させないようにね」
 ため息と皮肉を交えながら声をかけると、栞は振り向いて目を丸くした。
「あれ、お姉ちゃん、まだ起きてたの?」
「ええ。花の受験生だもの。あと十日で入試と思えば、惰眠をむさぼってはいられないわ。それで栞はなにをしているの?」
「チョコレートを作っているんだよ」
 いわれてみれば。台所の惨状にふぅんと軽くうなずいた。
「また唐突に妙なことをはじめたわね」
「え?」
 栞が信じられないという表情を浮かべた。ちょっとびっくりどころか、天地がひっくり返ったような驚愕とでもいえばいいのだろうか。飴があったら口に放り込んでやりたい。
「どうしたのよ」
「あの、お姉ちゃん。いまの台詞、本気?」
「本気もなにも、ごくふつうの疑問だと思うけれど」
 そう答えると、栞はまじまじとこちらの顔をのぞいたあげく、長い長いため息をもらした。仕草のひとつひとつからは《お姉ちゃんが不憫でなりません》というオーラがにじみ出ていた。
 失礼な。
「うう、受験生って浮世離れしないとやっていけないんだね……。わたし、将来を悲観しちゃうよ」
 そういって涙を拭うまねをしながら、栞は冷蔵庫にぶら下がっている日めくり式のカレンダーを指でさし示した。つい先ほど栞がめくったのか、夕食のときとは違う数字がそこにはあった。
 十四。
「ああ、バレンタインだっけ」
 気がつかないあいだに、栞にもチョコレートを送る相手ができたらしい。こんな時間まで気合いを入れて手作りをしているということは、栞が渡す相手は、少なくとも父親ではない別の誰かさんだろう。
 その別の誰かさんについて追求するのはやめておくとして。
「嫌なことって忘れるものね」
 苦笑を返事に代えて、夜食の算段に移ることにした。
 冷蔵庫を開けてなかを適当に見繕う。適当におなかが膨れ、けれどカロリーは大したことがないもの。多少食べたところで太る体質ではないが、受験に際して不摂生を重ねている以上、無駄なカロリーをとることもない。
「嫌なことって? 誰かに送ってこっぴどく突き返されたとか」興味津々の栞。
「そんな相手を好きになるほど、あたしは人を見る目がないわけじゃないわ」
 そもそも、前に人を好きになったのはいつのことだったか。義務教育中だったのは確かだが、相手の名前も顔も記憶の彼方だった。
 そんな程度のものが恋愛感情といえるのかは疑問だった。
「うわぁ、お姉ちゃん、自信家だねー」
 なにが。
 出来合いのピザがあったのでそれを一枚と卵、ベーコンを冷蔵庫から取り出し、オーブン兼用のトースタにアルミ箔を敷いてピザを放り込む。コーヒーメーカをセットすると、カップに湯をそそいで温めておく。
 カフェイン中毒といわれれば強くは否定できないが、他にストレスを発散する方法もない。たばこを吸うほど愚かにもなれないし、アルコールは実は一口も飲めない。そのうち胃を痛めそうである。困ったものだった。
「お姉ちゃんは誰かに送らないの?」
「誰かって、たとえば?」
 気のない口調で返事をし、小さなフッ素樹脂加工のフライパンをコンロにかける。
 ふっくらブラジャー愛の痕。
 フッ素、塩素、臭素、ヨウ素、アスタチン。
「北川さんとか」
「なんで?」
「祐一さんとか」
「なんで?」
 温まったフライパンの上でベーコンに焦げ目をつけると、その上に卵をのせてふたをかぶせる。
 確かに栞が名前を挙げたふたりは、確かにほとんど唯一――ふたりあげておいて唯一もないが――といってよい親しい男友だちだが、甘いもの嫌いの気のある人間に、チョコレートなど送ってどうするというのか。
「お姉ちゃんがチョコをあげたら、きっと喜んでくれるよ」
 栞が期待しているような状況になるはずもなかったが、それでもふたりが喜んでくれることは想像できた。しかし。
「面倒」
「うー、手作りなんていわないから、せめてなにか買ってでも」
「面倒」
「……うわぁ、むごいなぁ……」
 首を振っている気配を背後にして、コンロの火を止めた。しばらく放っておくと、片面焼きの出来上がりだ。両面焼きの目玉焼きなど、邪道の極みである。
「むごいもなにも、いままで渡していないのに今年だけ渡すというのも変でしょ」
 ちょうど入ったコーヒーをカップにそそぐと、香気がキッチンに広がる、といいたいのだが、栞が散布したチョコレートの強烈な香りの前に、ほとんどわからない。焼き上がったピザ、目玉焼き、コーヒーカップをアルミ箔ごと皿にのせる。
「今年で最後になるかもしれないよ」
「だからこそじゃない」
 はてなと首を傾げる栞を残して、甘ったるいキッチンから退散することにした。


「どこかにいい男はいないかしら」
 いまの気分のように白く曇る窓ガラスにぼんやりと視線を向けながら、ため息とともにつぶやいた言葉に、数学の問題集と格闘していた北川君が目を丸くしてこちらを見た。
「美坂がそんなこというなんて珍しいな」
「そうね」
 そう思う。けれど、ときにはそんな日もあるのだ。特にきょうのような日には。
 もう一度ため息をつくと、鞄に目をやった。いつもと違って、そこには丁寧な包装紙に包まれたチョコレートがひそやかに入っている。
 二月十四日はバレンタインデー。製菓業界の書き入れどきだ。いや、本当の書き入れどきはその前の期間だろうけれど。カレンダーばかりは人の意志ではどうにもならない。
 なにかいいかけた北川君を遮るように予鈴の鐘が鳴りはじめ、北川君は鼻白んだ顔で口を閉じた。余韻が残るあいだに名雪と相沢君が教室に走り込んできた。
 相沢君はいつも以上に息を切らせていたし、名雪は普段にもまして眠そうだった。
「くー」
 よく見ればまだ寝ていた。
 存外と面倒見がよい相沢君は、容赦なく頭をひっぱたいたりしながらも、ほとんど意識がない名雪を席まで誘導してやっている。
 そう考えると、彼が意外と――あくまで意外とというレベルではあるが――もてるという事実が、その手の噂には疎い方だという自覚があるから、詳しいことはよく知らないのだが、そう奇妙なものではないと感じられた。
 ときおりの突拍子もない行動に振り回されるのが嫌でなければ、恋人にするにはいい相手かもしれない。少なくとも、退屈はしないだろう。
「どうした?」
 視線に気づいたのか、コートを脱いでいた相沢君が振り向いた。
「お疲れさま」
「そう思うなら選手交代してくれ」
「遠慮しておくわ」
「奥ゆかしさは日本でしか通じない美徳だぞ」
「日本人で結構よ」
 名雪が目を覚ましたのは、一限の物理の授業が終わってからだった。受験生だというのにいい度胸をしていると思うが、名雪のことを把握している教師はもはやあきらめ顔だった。
 ぼんやりとした顔のまま周囲を見渡して、名雪は目を丸くした。
「わ、びっくり。目が覚めたら学校……。しかもちゃんと着替えてる」
 リボンはいびつだったし、髪もとかしてあるようには見えなかったが、誰がどうやって着替えさせたのだろう。
「なんだか、いつも以上に眠たそうね」
「うん。きのうは遅かったんだよ」
 そういってふわふわとあくびをもらす。猫好きというキャラクター性も相まって、まるでひなたぼっこをしている猫のようだった。
 そっけなく相沢君がいった。
「あれはおまえが悪い」
「うー、しょうがないんだよ。普段ああいうことはしないんだもん」
「だからって、夜も遅くまでがんばることもないだろ」
 ものすごく誤解を招きそうな会話だ。実際、なにかいいたそうな視線が教室のあちこちから、名雪と相沢君のふたりに突き刺さっている。
 鈍感な名雪はともかく、相沢君はそれに気づいたようで、一番近い視線の持ち主であるところの北川君の額を、妄想を断ち切るように指ではじいた。
「なにか誤解してるだろ」
「……おさかんなことで」
「それは誤解だ。単に名雪が台所を占拠して家中に甘ったるいにおいをまき散らしていただけのことだ」
 昨晩の胸やけしそうなキッチンを思い出しながら口を挟む。
「つまらないわね」
「香里までか……」
「なによ。結局のろけ話じゃない」
「まったくだな」
 北川君とふたりうなずきあっていると、相沢君はなにかいいたそうにしながら、結局黙って机に突っ伏した。いいたいことはずばずばというタイプだと思うのだが、珍しいこともあるものだ。
 相沢君の代わりに名雪が口をとがらせた。
「違うよー。のろけてなんかないよー」
 鞄をがさごそとあさると、猫の包装紙で綺麗にラッピングしてある箱を取り出し、北川君に手渡す。
「はい。チョコレートだよ。おいしいかわからないけれど、よかったら食べてね」
 そんなことをしていると、そのうち誤解されるわよ。そんな打算をしないからこそ名雪なのだけれど。
「ありがとうな、水瀬」
 うれしそうな北川君に相沢君が茶々を入れた。
「北川のきょうの楽しみは、名雪からの義理チョコひとつで終わりだな」
「なに、相沢とは違って俺は部活をやってるからな。おまえよりはもらえるあては多いんだ」
「はたしてそうかな? 去年は転校してきたばかりだったが、今年は違うぞ。相沢祐一ここにあり。あとで数を比べて涙を流すのは北川の方だな」
 いつのまにか、チョコレートがいくつもらえるかの競争になっていた。
 このふたり、これで打ち止めという可能性を考えないのだろうか。
 とりあえず、思い浮かんだ疑問をぶつけた。
「北川君、男子剣道部だったわよね。女子部はないのに誰にもらえるの?」


「さて、学食制覇の時間だぞ」
 四限の授業が終わるやいなや、相沢君はノートや問題集を放り投げていった。受験生らしく、納得できない回答に呻吟したりしないというのはどうなのか。
 それはさておき、学食制覇。
 これは相沢君と北川君のどちらかがいいだしたことで、残り少ない学生生活で、普段食べていないようなマイナーな学食のメニューをすべて制覇するという、名前そのままの企画だった。
 間違っても武装して学食に籠城するという企画ではない……相沢君ならば状況次第でやりそうな気もするけれど。
 普通の学食ならばこんな企画を成立させようにもメニューの数が足りないのだが、この学校の学食は、ちょっとしたファミレス程度にはメニューが豊富なのだ。
 学食はAランチだけだった名雪ともども、なんとなくそれにつきあっている。
 名雪にもらって以来、ひとつもチョコレートが増えない男ふたりの背中を見ながら歩いていると、見知った顔の後輩が階段からこちらに歩いてきた。なぜか、白いビニル袋をぶら下げている。
「こんにちは」
 そう挨拶したのは、二年生の天野美汐さんだった。いつもどおりしっとりと落ち着いた――相沢君にいわせるとおばさんくさい――挙措だ。相沢君が繰り返しこんなことをいうものだから、ビニル袋を手に提げていると、買い物帰りの主婦に見えてしまう。
 どういうわけか、相沢君と知り合いで、その関係で顔を見れば挨拶をする程度の仲にはなっていた。
「本日はお日柄もよく」
「見合いか?」
「違いますっ」
 なにやらとんちんかんなやりとり。
 確かに白く曇った窓からかいま見える空は雲ひとつなくよく晴れているけれど、おかげで放射冷却のために普段より寒い一日になっていた。
 おほんと咳払いをした天野さんは、手に提げていたコンビニのビニル袋から包装紙に包まれた四角い物体を取り出し、相沢君に差し出した。
 受け取った相沢君は目を丸くしている。天野さんがバレンタインデーというイベントに加わることは予想していなかったのだろう。
 感激の涙におぼれそうになった相沢君の前で、天野さんは再び別のチョコレートを取り出した。そして、ふだんとなにも変わらない様子で残る三人にも順に手渡していく。
 それを見て、相沢君は先ほどとはまた別の意味で絶句した。
「お気になさらず。もちろん義理ですから。今日の朝、コンビニによったらバレンタインチョコレートが売っていたので、売れ残りのものを買ってきただけです」
「天野……。バレンタインとお歳暮は違うんだぞ」
 まったくおばさんは、と相沢君は嘆かわしそうに首を振った。
 ひどく失礼ないいぐさだったが、相沢君のそんないいまわしになれているのだろう。天野さんは意にも介さない。
「それではごきげんよう」
 用件はすませたとばかりにスカートの裾をかすかに揺らし、天野さんは背を向けて去っていった。
 その後ろ姿から、なにやら白いものがひらりと床に舞い落ちる。
 間が抜けたやりとりを再開した男たちはそれに気づいていない。
 拾い上げるとそれはコンビニのレシートだった。おにぎりふたつとペットボトルのお茶。しめて三百八十八円。
 思わず浮かんだ笑いを隠して、そっとそれを握りつぶした。


 いつものように学食では名雪と北川君が席を確保し、相沢君とふたりで買いに行くことになった。きょうのメニューは《インディアン・スパゲッティ》。なんのことはない、ソースがカレー風というだけである。
 辛さは中辛程度なので、栞でもなければ食べられる(栞は辛いものが食べられないお子さま味覚の持ち主なのだ)。
 カレーとは便利なもので、よほどひどい店だったり、組み合わせを大幅に間違えたりしなければ、とりあえず食べられる味にはなる。
 実際、このスパゲッティもまずまずの味だった。難点は下手な食べ方をすると制服にはねて悲惨なことになることだった。臙脂色の部分ならごまかしも利くだろうが、白い襟や袖口が茶色く染まっては恥ずかしい。
 そういうわけでゆったりと食べていたいのだが、ここの学食は利用者数に対してどうも席が不足がちなので、相沢君のように図太い性格でもなければ、あまりくつろげないのが残念なところだ。
 どのみち二次試験が迫ったいまは、その相沢君でさえも教室で多少は問題集とにらめっこすることになるので、食べ終えたらさっさと食堂を出ることにする。
「食べ急ぐと早死にしそうなんだけどな」
「相沢が早死に? それはないな」
「うん、わたしもそう思うよ」
「名雪もきっと長生きするわよ」
「……もしかして、ひどいこといってる?」
 名雪が少しすねた顔をした。
 学食を出たところで、呼び止める声があった。
「あ、あの、先輩っ」
 先輩では誰のことかわからない。その場にいた最上級生四人がいっせいにくるりと振り返る。
 そこにいたのは青いリボン、つまり一年生のの女の子ふたりだった。肩に届かないようなショートと、届く程度の長さで、どちらも顔かたちが整っている。
 ただ、顔も名前も知らない。さて、誰の知り合いだろうか。知り合いでなくても、という可能性はあるが。
 ちらりと視線を走らせたが、誰も彼女たちの顔に見覚えはないようだった。相沢君と北川君の顔は、なんとなくゆるんでいるようにも見えたけれど、きょうという日を思えば無理もない。
 さて、どちらに渡すつもりだろう。
 ショートの子が髪が長い子の脇腹をつつくようにしてばかね、といった。緊張しているのかそれにも気づかないで、長い髪の彼女は手に持っていた包みを差し出した。
「えっと、受け取ってくださいっ」
 相沢君があんぐりと口を開けた。
 北川君も目を丸くした。
 名雪はひとり冷静だった。
 そして。
「……あたし?」
「はいっ、美坂先輩、ずっと好きでしたっ」
 顔から耳から首から、全身を真っ赤に染めて彼女はいい切った。
 いい切られてしまった。
 つられてこちらの頬にまで血が上る。
 男の子には一度もこんなこといわれたことがないのに、なぜかときどき女の子にはいわれる。
「えっと、ご迷惑かもしれませんけれど、チョコレート、受け取っていただけませんか。その、おいしいかなんてわからないですから、捨てちゃっても仕方ないですけど、でもできれば一口くらいは食べていただけると、だからその、受験がんばってください。わたし、遠くで先輩のこと応援していますから、えっとわたし、先輩と同じ大学目指しますから」
「そ、そう……。ありがとう」
 ぐいっと手に押し込まれたチョコレートの包みを、勢いに押されて思わず受け取ってしまう。
「それでは失礼しますっ」
 ぺこりというよりぶんと頭を下げた彼女は、結局名前も告げずに廊下を走って去ってしまった。ショートの子も、頭を下げると友だちを追いかけて廊下を走っていく。
 気がつくと、三人の姿はどこにもなかった。気を利かせたつもりなのだろう。
 そんな気の使い方はしてもらっても困る。
 どういう顔をして教室に帰ればいいのだろうか。表情の選択に困りながらドアを開けると、案の定相沢君がにやにやと笑みを浮かべて出迎えてくれた。
「香里、これからおまえのことはタチのお姉さんと呼んでやろう」
「いらないわよ」
「じゃあ、百合の王子様」
 拳を握りしめて静かに答えてやる。
「……いっぺん死にますか?」
「三回まわってワン」
 わけがわからない。


「それにしても、香里ってすごいよねー」
「女殺しって感じだよな」
 のほほんとした口調で名雪が口を挟んだ。相沢君がうんうんとうなずいたが、名雪はそれを否定していった。
「そうじゃないよ。香里、祐一や北川君とチョコレートをもらった数が同じだよね」
「……なぬ?」
「違うわよ、名雪」
「え?」
 正直にいおう。教室の鞄に入っているチョコレートは誰かに渡すためのものなどでは決してなく、学校に来る途中に見知らぬ後輩に渡されたものだ。だから、実は天野さんからもらったものを入れてみっつ。
 そう告白すると、相沢君と北川君が大爆笑をはじめた。
「はっはっは。香里ってやっぱり男より女にもてるタイプだな……ぶはははは」
 思い切り冷ややかにいってやった。
「あたしより少なくてどうするの?」
「はっはっは、まあ、誤差の範囲内だろ」
 相沢君たちが笑っていられたのもそのあたりまでだった。
 学食の出入口という公衆の面前でチョコレートを受け取ってしまったためか、休み時間になるたびに、何人もの女の子が教室にやってきては、チョコレートを渡して去っていく。
 ひとりだけもらってあとは突っ返すというわけにもいかず、結果、すべて受け取ることになる。
 冗談で渡している人間――多数派だと思いたい――もいそうだったが、真剣な顔で告白していく女の子もいて対応に困った。
 最初は笑っていた相沢君たちだったが、明らかに自分たちがもらう量よりも多いチョコレートの山が隣にできていくと、次第に笑顔が引きつりがちになり、やがてはうなだれて机に突っ伏してしまった。
 通学鞄にはとうてい納まりきらない量のチョコレートだったが、クラスの女の子が「こうなると思ったのよね」などといって、衣料品店のロゴ入りの紙袋を貸してくれた。
 容量のあるその紙袋がチョコレートで満たされていく様は、人ごとだったら感心できただろうが、とても笑えない。
 それでも時間は平等に過ぎ去り、放課後になった。
 補講のために三年生だけは授業の終了が遅いから、さすがにこの休み時間にチョコレートをもってくる女の子はそうはいないはずだった。
 実際、教室の外にいたのは見覚えのある女の子がひとりだけだった。
 及び腰になるまでもなく、にこやかな笑みを浮かべたのは妹の栞だった。
「あ、お姉ちゃん、名雪さん、お疲れさまです」
「栞ちゃん、こんにちは」
 そういう栞は、なにやら大きな荷物を抱え込んでいた。中身がいっぱいに詰まったスポーツバッグだ。
 意気消沈して教室から出てきた相沢君が、栞に気づいて手を振った。
「祐一さんもお疲れさまですー」
「ははっ……ほんとにお疲れだぞ」
 気力が抜けきったときに過去の入試問題と格闘する羽目になったのだから、無理もない。
 相沢君は栞のもっている荷物に気づいてぎょっとした顔になった。
「栞……それはまさか、チョコレート弁当という落ちじゃないだろうな」
 量に対する加減を知らない栞の弁当を思い出す。
 やや甘いことをのぞけば味はよいのだが、なぜか量が膨れ上がるという欠点があった。
 朝起きたときには、きわめて珍しいことに栞がすでに家を出たあとだったから、実は昨晩なにを作り上げたのか知らない。
 だから、相沢君がチョコレート弁当というのも否定できない。
 栞はぷくっと頬を膨らませた。
「違います。そんなこという人には、チョコレートあげませんよ」
「すまん、俺が悪かった」
 栞は鞄から包みを取り出して相沢君に手渡した。
 相沢君は遅れて出てきた北川君に、本日五つ目(あれから実はひとつだけ増えた)のチョコレートを見せながら少しだけ力の戻った笑顔を向けた。
「とりあえず、俺の勝ちは決まりのようだな」
「……勝手にしてくれ」
 北川君はそんな競争のことは忘れていたのだろう。疲れ切った顔で面倒くさそうに首をすくめた。
 そういえば、北川君のもらえる当てというのはどうなったのだろうか。
「それでですね」
 立てた人差し指を唇に当てながら思案深げに栞がいった。
「実は預かりものがあるんですよ。受験勉強の迷惑になるから、教室に邪魔しに行かないっていう女の子からの預かりものなんです」
「へえ……」
 栞は中身がいっぱいに詰まったスポーツバッグを差し出した。誰に差し出したのかは……いいたくもない。
「……そういうオチだと思ったわ」
「俺もそうだと思ったんだよ」
「ああ……もうなんのショックも受けないな」
 バレンタインデーなんて嫌いだ。
 三人でただうつろに笑う。
 栞はそれを見て不思議そうに目をぱちくりとさせた。
 名雪がくすりと笑っていった。
「きょうのチョコレート戦争は、香里の圧勝だよ」


 冬の早い落日が、周囲に降り積もる雪を金色に染め上げている。結晶の角度の加減か、ところどころで鋭角的な光がきらめいては瞳を射抜く。
 相沢君は最後にノックアウトされてしまい、栞に付き添われて商店街へ消えた。百花屋かどこかでたかられて、さんざんな一日を終えるのだろう。
 もっと悲惨なのは北川君で、なにかぶつぶつと意味不明なことをつぶやきながら、ひとり帰路に就いた。受験を直前にして事故に遭わなければよいが。
 名雪がいっしょに歩いているのは、きょうの収穫のチョコレートの山をひとりで運ぶのがとても無理だったからだ。
 隣を歩きながら、遠くの家の窓に反射する陽光に目を細めていた名雪が振り向いた。小さな笑いを口元にたたえていう。
「香里、今年ももてもてだったね」
「……そうね。あまりうれしくないけど」
 去年はバレンタインが休みだったから、ここまで悲惨なことはなかったし、一昨年は一年生という立場と、その年に卒業した上級生のおかげでやはりこんなことはなかった。
 だから、中学も同じだった名雪以外は、この狂想曲を知らなかったのだ。狂乱の中学三年間のバレンタインなど、思い出したくもない。
「あまり、ってことは、少しはうれしい?」
「甘いもの好きなら、菓子代が浮いたって喜んでいられるんだけどね」
 よく知らない人間の手作りチョコなんて、口にする気にもなれない。毒物でも混入されていたら、どうするのだ。
 おまじないと称して怪しげなものをチョコレートに混ぜた人間を、何人も知っている。
 本当の恋愛感情を知らず、適当に安全なところで手を打って、自分は女の子が好きな女の子なんです、と特別なつもりになっている子がいかに常識をわきまえていないのか、嫌というほど知っている。
「そうだ、名雪に半分あげるわよ。毒入りがいくつあるかわからないけど」
「だめだよー」やんわりと名雪は拒絶した。「もらうのはともかく、せめて中身ぐらいは香里が確認してあげないと」
 正論、なのだろうか。好意そのものに感謝しないとまではいわないが、正直煩わしい。
 ひとことで結論づけるなら。
「百合ごっこにつきあっても仕方ないでしょ」
「ごっこ、とは限らないんじゃないかな」
 名雪がそういって笑う。いつもと違う、けれどどこかで見た覚えのある笑み。
 なんだろう。思い出せない。
「香里のことが本当に好きな娘だって、きっとなかにはいると思うよ」
 そうなのだろうか。よくわからない。
 人に好意を向けられるのは嫌ではない。けれど、それが同性となると、嫌悪感が湧くわけではないが、同じレベルの好意で応えることもやはりできない。
 気がつくと家の前。名雪に礼をいって、彼女が抱えていたスポーツバッグを受け取る。
「ありがとね、名雪――」
 あがってく? と続けようとしたが、手のひらになにかを押し込まれて、思わず言葉がとぎれる。
「わたしの本気、だよっ」
 近づいた名雪の顔。
 甘い髪のにおい。
 唇に限りなく近い頬に触れる、温かな感触。
 次の瞬間、名雪はくるりと身を翻して、雪道を疾走していく。さすが陸上部元部長、あっという間に見えなくなった。
 呆然とそれを見送り、名雪の唇が触れた部分をそっと指で触る。
 そんなはずはないのに、その部分は熱を持ったように熱く感じられた。
 名雪の笑顔をいつ見たのか思い出した。昔《従兄の祐一》の話をしていたときのものだ。
 かなわない、届かない想いを知っている微笑み。
 ああ、とため息が漏れる。
 口づけの感触さえも、哀しい。


Written by SNOW 2002