はじめからうまくいくはずがなかった。
けれど、それに気づいたときはもう手遅れだった。
スピーカーから流れる有線では、安っぽいポップスがどこかへ消え失せてしまった愛情をかすれた声で嘆いていた。
いつものように約束の時間に遅れてきた祐一さんは、ウェイトレスに《ホットひとつ》といったきり、なにもいわないで窓の外に顔を向けていた。
祐一さんが見ているものを求めて、わたしも喫茶店と外とを隔てているガラスを見た。らしくもない無表情を保った祐一さんと、同じように表情に欠けたわたしの顔が映っている。
黒々と重なり合った雲の流した涙が、天井までの高さのウィンドウを伝い落ちていく。窓越しに見えるアスファルトは、はねる雨足にどこか白く染まって見えた。
先ほどから降り出した雨が激しいという以外、見るべきものもないありふれた昼下がりの光景だった。
それはわかっていたことだ。
わたしは窓から視線をそらすと、祐一さんの前の置かれた手つかずのコップに浮いた水滴を見つめた。
窓ガラスにも涙。
コップにも涙。
わたしの目にも涙。
そんな連想に、わたしは鼻の奥がつんとするのを感じた。慌ててわたしは別のことを考えようと、祐一さんを正面から見つめる。
黙って横を向いている祐一さんの顔は、この二年でずいぶんと大人になった。少年らしさの残っていた顎のラインも、少し痩せた。
毎日のように顔をあわせているとなかなか気づかないというのはきっと嘘だ。わたしは祐一さんの変化を、毎日のように見て飽きることはなかった。
けれど、わかりたくない変化だってある。
例えば、少しずつわたしと祐一さんが、視線のベクトルを違えてきていることとか。
言葉をかわすことが、唇や躰を重ねることが、少しずつ減っていったこととか。
たがいに瞳と瞳を向けて話したのがいつだったか、思い出せもしない。
寒々とした部屋。がらんどうのマンション。それでもわたしたちはそこにしがみついていた。
思い出したように祐一さんが冗談を口にして、わたしが笑う。けれど、笑い声をわたしがあげるたびに、見えない亀裂が広がっていくようだった。
はじめからわたしたちのあいだにはなにもなかった。ただ、わたしたちはおたがいが失ったものを埋め合わせるために一緒にいたというだけだ。
そして、なくしたものほど大きくはないけれど、それでも心に空いた空虚な部分を少しずつ埋められたのだ。
わたしだけが。
ウェイトレスがコーヒーカップとレシートをテーブルにおいて去っていった。
湯気とともに香気が立ち上り、祐一さんは正面に向き直ってカップに口をつけた。視線は褐色の液体に向けられている。
「祐一さん、眉間にしわが寄ってますよ」
「……ああ」
祐一さんは魂を抜かれたみたいにぼんやりとうなずいた。
ふと、わたしは想像する。魂が欠けてしまったら、人間はどうなるのだろう。
傷つけば、その傷口を埋めるように周囲が盛り上がって欠けた部分を埋めていく。でも、あまりに深く、そして広く穴をうがたれたならば。
埋めきれずに傷跡が残って、それでも空洞を埋めようとありもしない魂をそそぎ込んで、あるべきものさえなくしてしまうのではないか。
「あのさ、佐祐理さん」
「はい」
ゆですぎてふやけたパスタみたいに芯のないわたしに、祐一さんが再び視線を窓の外に向けていった。
「他に、好きな人ができたんだ」
「あはは……。そういう冗談、笑えないです」
それが冗談ではないことくらい、わかっていた。でも、他になにがいえただろう。
わかりました。荷物は今度の日曜までに持っていってくださいね。さようなら。
そんな風になんの未練もなく笑うことなんてできはしない。これほどまでに心と心が遠くに離れてしまっても、わたしはまだ祐一さんのことが大好きなのだから。
「冗談なんかじゃないよ」
でも、祐一さんはわたしの蜘蛛の糸みたいな願望を否定した。
カウベルが鳴り、激しい雨がアスファルトを叩く音が一瞬ポップスに取って代わった。
あいかわらず祐一さんはわたしの方を見ないまま、半ば独白のように言葉を続ける。祐一さんにとってはもう、これは独白であり義務なのかもしれない。
あるいは、この三年間の清算。
「疲れるんだよ、佐祐理さんといるとさ」
投げやりな言葉でわたしに斬りつけてくる。のこぎりのようにギザギザになった刃が心を傷つけるのを、わたしは確かに感じていた。
「結局佐祐理さんにとって、俺っていうのは」祐一さんは少し荒れた唇をなめ、それをわずかにゆがめた。「一弥の身代わりでしかないんだよ。思えば舞のことも一弥の身代わりにしてただろ。ってことは、俺は二重の身代わりなんだよな。でも、俺は相沢祐一であって、倉田一弥でも川澄舞でもないんだ」
思わず息をのみ、しかしわたしはなにもいえなかった。いい返さないでいれば、祐一さんの言葉を肯定することになるのに。
そう。それは肯定だ。
お冷やの氷がきしんで小さな音を立てる。
もう冷えてしまっただろうブラックのコーヒーを一口飲み、祐一さんは顔をしかめて立ち上がった。裏返しのレシートを手に取る。
一方的な別れ話にふさわしい、一方的な話の切り上げ方だった。
「いいたいことはそれだけ。それじゃ、さよなら。もう会うこともないだろうけど――」
「……ひとつだけ、いいですか」
きょう、一度もわたしの顔を見なかった祐一さんに訊ねた。
「なに?」
「舞がいたら」わたしはいってはいけないことを口にする。「もし、舞がいたら、佐祐理と祐一さんはまだいっしょにいられたんでしょうか」
祐一さんは一瞬、ものすごく怖い顔になった。ひっぱたかれるだろうか。きっと、そうしてくれたって、祐一さんが構ってくれるなら、少しでも引きとめられるならわたしは嬉しいのだ。
けれど祐一さんはそれまでと同じニュートラルな表情でそっぽを向いたままいった。
「舞と俺、先に佐祐理さんに愛想を尽かすのはどっちだっただろう」
上辺だけの愛想の店員の声。開閉に揺れるカウベルの音。雨水が側溝をごうと流れる音。脳天気な愛を歌う声。
冷えてしまったコーヒーに口をつけ、苦い液体を流し込む。カップについたいつものベージュピンクの口紅。何度か祐一さんのシャツにつけてしまったこともあった。洗っても取れなくてだめにしてしまったことだってある。
目元が潤みかけたのを感じて、わたしはハンドバッグを手にして立ち上がった。涙がこぼれる前に喫茶店を出る。何度も祐一さんと待ち合わせをしたお気に入りのこのお店だけど、もう来られそうもない。
ドアについた鈴に送られたわたしは、街を染める豪雨に迎えられた。短いあいだに側溝からあふれ出した雨水が、アスファルトにあふれ出して流れていく。
傘立てからいつもの白い傘を取り出そうとして、それがないことに気づいた。一瞬誰かが適当に持っていってしまったのかと疑ったが、替わりに見慣れた祐一さんの黒い傘が残っていた。
「最後までそそっかしいですね、祐一さん」
こぼれた笑い声はかすれていた。
わたしは祐一さんの手を握るように男ものの傘の柄をつかんだ。柄の近くのボタンを押すと、ばねで傘が開いた。わたしは濡れて黒ずんだ歩道に踏み出した。
大粒の雨の滴が傘を打って鈍い音がする。なにも考えられないと思いながらも、水たまりを避けて歩く自分が滑稽だった。
この傘の下にいるときはいつも祐一さんと一緒で、ちょっと狭かった。濡れないようにわたしの方に傘を傾けてくれる祐一さんとくっつくように雨粒の下を歩いた。
薄く塗ったファンデーションの上を、雨粒よりも大きな涙がこぼれていく。
ふたりには少し狭い傘は、ひとりでさすには大きすぎる。けれど、行き交う人から涙に崩れた顔を隠すには充分だった。
足早に歩くわたしの側を、黄色い傘を差してランドセルを背負った子どもたちが、水たまりの雨水をはねとばしながら元気よく走っていく。
祐一さんの子どもが欲しいと思ったこともある。それを夢想したのはとても楽しかったのに、それはもう遠くはかない夢でしかない。
もしわたしが身ごもっていたら、いまも祐一さんはわたしを愛してくれていただろうか。何度も祐一さんを受け止めたおなかに、服の上から手をあてる。
いつもの坂道、そしていつもの横断歩道をひとりで歩く。薬局の隣にあるウェディング・ドレスのディスプレイがわたしを笑っていた。
アパートの四階に帰り着いたわたしは、ソファの上にハンドバッグを放り投げると、はねた雫で汚れた足元も気にせずにベッドに倒れ込んだ。
ぐちゃぐちゃになった顔をシーツに押しつけると、あとからあとから涙があふれてくる。嗚咽の漏れる喉は焼けるように熱い。
もう我慢することはなかった。
「祐一さん……祐一さんっ」
そう泣き叫んでも、誰も答えてはくれない。
このところの雨続きであまり洗っていないシーツからは、祐一さんのにおいがする。
部屋のどこを見ても、ここには祐一さんとの思い出ばかりが詰まっている。
出会ってからはじめて迎えたわたしの誕生日に、同じように舞の死を嘆きながらも贈ってくれた大きなアライグマの人形。
いっしょに出かけた水族館で買ったイルカのマグカップ。のどが渇いたとき、これに入れてふたりで飲むカフェオレはとても甘かった。
膝の上に寝ころんだ祐一さんの耳を掃除した耳掻き。くすぐったそうにする祐一さんの髪をなでるのが好きだった。
この部屋の家具すべてにふたり分の思い出が染みついているのに、思い出を分かち合う祐一さんだけがいない。
もはや声にもならない慟哭を繰り返したわたしは、泣くことに疲れ果てていつのまにか眠っていた。
そしてわたしは夢を見た。
夢のなかで、わたしは祐一さんと一緒に舞の誕生日を祝っていた。ひょっとしたらあり得たかもしれないその幸福な宴。
はしゃぎすぎて疲れ、夢のなかでさえ半ば眠りこけたわたしに祐一さんが近づいてくる。 半ば意識がなくても、足音だけで祐一さんだってわかる。マンションの廊下を歩く扉越しの足音でさえ、わたしは祐一さんかどうかわかるのだ。
「祐一、さん?」
夢と現の狭間をさまよいながら、そのときわたしは確かに祐一さんの足音を聞いていた。それが家の前で立ち止まる。
帰ってきてくれたんですか?
あまりに都合がよすぎる夢に、また泣きたくなる。
郵便受けのなかで、金属と金属がぶつかる軽い音がした。そして、祐一さんはまた離れていく。
「……祐一さん」
わたしはゆっくりと覚醒した。それは夢じゃない。現実だった。遠ざかる祐一さんの足音を確かに耳にした。
身を投げ出していたベッドから飛び起きて、わたしは玄関に向かう。鍵とチェーンを外すのももどかしく廊下に飛び出したわたしは、一階を指すエレベータの表示に気がついた。
遅かった。あまりに気づくのが遅すぎた。
知らないあいだに引っかけて伝線したストッキング越しにしみこんでくるコンクリートの冷たさに身震いすると、わたしはとぼとぼと自分の部屋に引き返した。ドアを開けると、また金属がこすれぶつかり合う音がした。
郵便受けのなかで、なにかがぶつかっている。
震える指先にもどかしくなりながら、わたしは開けてそのなかをのぞいた。手紙一通入っていないそこから、祐一さんの持っている合い鍵が転がり落ちた。
ああ、本当に終わりなんだ――。
枯れ果てる気配のない涙が、またあふれ出す。拾い上げた鍵は冷たくて、ほんのついさっきまで残っていたはずの祐一さんの体温を伝えてもくれなかった。
しばらくドアにもたれていたわたしは、やがて寝室に戻った。なにもする気になれなかった。
二人で選んだ部屋の、二人で選んだレースのカーテンの向こう、二人で肌を寄せ合って見つめた窓の外。
わたしはふとその窓に額を押しつけた。それは予感だったのかもしれないし、純粋に未練だったのかもしれない。
ちょうどマンションのエントランスから出てきた祐一さんが、一瞬こちらを見上げたのが目に入った。先ほどまで続いていたどしゃ降りの雨に打たれてずぶぬれになったシャツが素肌に張りついているのが、この距離でもわかった。
「そんな風にしてくれたら、嫌いになれないじゃないですか……」
祐一さんは身を翻した。
いつのまにか切れた雲から差す光が、祐一さんを照らし出した。しおれた髪をなでつけると、祐一さんはジーンズのポケットに手を突っ込んだ。
少しだけ猫背の祐一さんの後ろ姿が、雨上がりの人の群れに飲み込まれて小さく、遠くなっていく。
それをわたしはずっと見送っていた。
ずっと。