桜に眠る

「もう四月だっていうのに、この街は……」
 祐一はわずかに白く煙る吐息を漏らすと、ぐるぐると首を回した。
 夜空が視界に入った。天気はいいようだったが、街の灯りに星の煌めきは霞んでいて、彩なす星座が見えるというほどではない。
 ときおり風が吹くたびに、祐一は首を亀のように縮めてやり過ごす。いまだに雪が積もっているということはないが、祐一の定義する春らしい陽気とはかけ離れた寒さだった。それでも郷里に帰るなどといわなくなったのは、この街に少しずつ慣れてきたからなのか。あるいは、かつて馴染んでいた寒さを、体が少しずつ思い出してきたということなのかもしれなかった。
「名雪なら、なんというかな……」従妹の少女のことを思い浮かべる。「少なくとも、いまの俺はこの街が嫌いじゃないぞ」
 祐一が歩いているのは、名雪と二月ほどのあいだ毎日のように走った(あるいは走らざるをえなかった)通学路だったが、すでにして懐かしいと感じた。
 どうしてそう感じるのかと分析してみる。たぶん、それだけ従妹の家を出てからの生活の密度が濃いということなのだろう。
 ようやくたどり着いた従妹の家も、出てからそれほどの月日が経っているわけでもないのに、やはり懐かしかった。ただ、懐かしいといっても、帰ってきたという感覚はすでになかった。
「……ただいま」
 玄関の戸を開けて挨拶をする。
 廊下の灯りは消されていたが、リビングからは暖かい光が漏れていて、テレビの音声やかすかな笑い声という、人の気配が聞こえてきた。
 珍しいこともあるものだ。祐一は訝しんだ。この家に住んでいる人間のうち、叔母の秋子はともかく、従妹の名雪ならば、すでに寝ているはずの時間だ。いったいリビングにいるのは誰だろう。
 祐一はスリッパに足を突っ込むと、廊下をゆっくりと歩いてリビングの前に行き、ドアをそっと開けてなかの様子をうかがった。
 予想は外れた。
 リビングには秋子と名雪、そしてもうひとりの少女がいた。いずれもすでに風呂に入ったあとなのか、パジャマに着替えて、ソファに座ってくつろいでいる。もう一度、ただいまと声をかけると、ようやく祐一に気づいて、テレビに向けられていた視線が振り返った。
「あら、祐一さん、お帰りなさい。きょうはどうされたんですか?」
 最初に返事をしたのは、叔母の秋子だった。普段どおりの仕草と声で、唐突な来訪にも驚いた様子がまったく見られないのがこの人らしかった。一度、秋子が動揺する姿というのを見てみたいと心の隅で思うが、そんな途方もない事態は、恐ろしくて想像もしたくないのもまた事実だった。
 倉田佐祐理と川澄舞というのが、現在祐一が同居している人間の名前だ。ふたりはこの春に祐一と名雪の通う高校を卒業した先輩だった。祐一が転入してからわずかの期間で、三人は非常に親しくなり、ふたりが卒業してからは佐祐理が自分名義で購入したマンションで、一緒に暮らすようになっていた。
「舞と佐祐理さんのそれぞれに用事ができたので、ふたりとも今晩は実家に戻ったんです。それで、ひとりでいるのもなんだしと思いまして」
「そうですか」
 秋子は頬に手を当てる仕草とともにおっとりと微笑んだ。
 唐突の帰宅(そう定義するのもいまでは微妙だが)であっても暖かく受け容れてくれる秋子を、祐一は素直にありがたいと思う。高校生にして女性ふたりと同居という事態になっても、《週七日の外泊も仕方ありませんね》といって体裁を整えてくれたのだ。人生経験などというものではなく、人間の器としての差を感じる。祐一はきっと一生秋子に頭が上がらないだろう。だからこそ、できる限りは今晩のように顔を出すようにしていた。
 夕食を勧められたが、丁寧に断る。来る前に済ませていたこともあったし、だいたい作り置いてあるはずもなかった。
 そんな祐一の気遣いをすべて理解しているというように、秋子は笑みを深くする。
「お風呂は遠慮しないで使ってくださいね。まだ外は寒かったでしょう」
「ええ、まだまだ寒いですね。風が身に染みます」
「……わ、祐一だよ〜」
 祐一と秋子がそれだけの会話をしてから、ようやく名雪が反応した。まだ十時過ぎだというのに、すでに睡眠状態に移行しつつあるようで、瞼が半分ほど閉じかけていた。
 名雪がこんな時間まで起きているのは、非常に珍しいことだった。とはいえ、意識が朦朧としているのか、ふわふわと頭が揺れ動いていて、いまにもテーブルに突っ伏して寝てしまいそうだった。
「五パーセクぶりだな」
「二日前に会ったよ」
「そいつは俺のドッペルゲンガーだ。俺のふりをして悪戯ばっかりしている、とっても迷惑な奴なんだ」
「くー」名雪は寝息で返事をした。
「寝るならベッドで寝てくれ……」
「……うにゅ」
 祐一は名雪の横に座っている少女に視線を向けた。
 名雪のものとしか思えないデフォルメされた子猫模様のパジャマに、やはり名雪のものとしか思えないカエルのはんてんを羽織っている香里が、横目で祐一を見ている。その表情は多少複雑で、たぶんに表情の選択に困っているようでもあった。
「お、色っぽい格好だな、香里」
「……なんで相沢君がここにいるのよ」香里は不機嫌に見える表情を浮かべた。
「春だからな」
「理由になっていないわよ」
「それはきっと目の錯覚だ」
「……相変わらずね」香里が呆れたようにため息をもらす。「本当に成長がないわ」
「なにをいう。男というのは、三日おけばはるかに成長しているものなんだ」
「ふぅん……。それが目の錯覚というわけね」
 ぐうっ、という奇妙な音をのどの奥から発して祐一は沈黙した。
 相変わらず半眼だったが、名雪に聞けばいまの香里の機嫌の良し悪しを判断できるだろう。しかし、その名雪はといえば、
「くー」
 眠っていた。
 香里が泊まりに来ていたからがんばって起きていたのだろうが、それも限界に達したのだろう。普段はいくら眠くても自分の部屋までは歩いていくのに、いまや完全に眠りこけている。
「おい、名雪」祐一は名雪に近寄った。「こんなところで寝るなっ」
「くー」
「熟睡してるわね」
 香里もソファに座ったまま名雪の寝顔をのぞき込んだ。軽くほっぺたをつついたり、つまんだりしてみせる。それでもまったく起きる気配はなかった。
 それくらいで起きるのなら、ここで暮らしていたときに毎朝あれほどの苦労はしなかった。振り返ってみて祐一は苦笑した。
「名雪、ベッドで寝ないと風邪を引きますよ」
 秋子も軽く名雪の体を揺すってみたが、やはり起きる様子はなかった。
 あっさりと起こすのを諦めて、秋子は祐一にいった。
「祐一さん、申し訳ないですけれど、名雪を部屋まで運んでいただけますか?」
「ええ、いいですよ。こんなところに放りだしておいたら、風邪でもひきかねませんからね」
 祐一は短く笑うと、そっと名雪を抱え上げた。


 名雪を寝かせたあと、秋子もまた寝室に下がった。香里はどうするのか迷っていた様子だったが、結局リビングに残ることを選んだようだった。
 ただ誰も消さなかったというだけの理由で、テレビからは半ばショーと化したニュース番組が流れている。香里はぼんやりと、テレビでアナウンサやらコメンテータやらが、なにか見当違いの感情論を偉そうに喋っているのを眺めていた。
 祐一はキッチンでコーヒーメーカにフィルタをセットして、コーヒーを入れる準備をしていた。
 佐祐理に入れ方を習ったのだが、どれだけ丁寧に入れても彼女のコーヒーの味にはかなわない。まさに達人級の腕前だった。
 その佐祐理にしても、秋子の腕にはわずかに及ばなかった。ハイレベルの腕の差だから、祐一の舌ではなんとなくしか違いはわからないのだけれど、舞にいわせると、《……佐祐理の入れたコーヒーよりおいしいコーヒーははじめて》ということになる。
「香里はまだ寝ないのか?」
「目が冴えて、まだまだ寝られないわよ」
 その言葉を受けて祐一は壁に掛かっている時計に視線を走らせた。名雪の目覚まし時計コレクションとは違って、かなり落ち着いたデザインのものだ。確かに大抵の高校生が寝るにはまだ早い時間だった。
「香里はもっと健康的な生活を送っていると思ったけど」
「そんなことないわよ」
「で、コーヒーは飲むか? 秋子さんの腕と比べられても困るけどな」
「もらうわ。相沢君の入れたコーヒーなんて、滅多に飲めないでしょうから、ここはひとつ、話の種に」
 香里の言葉を受けて、豆の量を調整する。
「ふふふ。俺のコーヒーを飲んでひっくり返るなよ」
「……お願いだから、普通のコーヒーを入れてちょうだい」
「それは奇跡の範疇だな。神様がまだ眠りこけていないことを祈ってくれ」
「……奇跡、ね……」
 祐一の台詞を反芻しながら香里が浮かべたどこか幸せそうな表情は、キッチンにいる祐一からは見えなかった。
 コーヒーを入れ終わり、祐一は香里の前にソーサーとスプーン、前もって湯で温めておいたカップ、ミルクと砂糖を置く。一度引き返すと、コーヒーメーカを持ってきて、ふたつのカップに褐色の液体を注いだ。
「見た目は普通のコーヒーね」
「見た目だけじゃないぞ。味もたぶん普通だ」
 香里と向かい合わせに座ると、ミルクだけを入れてから祐一は一口飲んでみせる。
「たぶん、というのが気になるんだけど」
 香里もカップを手に取った。こちらはミルクも砂糖も入れない。
 口をつけたカップを祐一がソーサーに戻すのを見てから香里は訊ねた。
「ところで相沢君。倉田先輩と川澄先輩との同棲生活はどうなの?」
「そんなんじゃないって」祐一は苦笑した。「まあ、世間からはそうとしか見えないことはわかっているし、だから学校では伏せているんだけどな」
 男と女がひとつ屋根の下で暮らしてなにもないことはないだろう。そう勘ぐるのが世間ということは、祐一にもよくわかっていた。
 たとえば、秋子がいるにも関わらず、クラスメイトのなかには祐一と名雪の関係を疑ったものもいるのだ。片方の親という世間的なリミッタがない三人の生活ではなおさらのことだった。
「そうね。実際に相沢君たち三人がいっしょにいるところを見ていれば、そんな関係じゃないって感じるけど、それでも、うまく隠しているのかなって思ってしまうもの」
 香里はテレビに視線を向けた。祐一たちのうちの誰かが、マスコミの喜びそうな事件に触れでもしたら、三人の共同生活は格好の話題を提供することになるだろう。
 実際のところ、祐一と佐祐理、舞のあいだに肉体関係はおろか、恋愛関係もいっさいない。もちろん将来の話は分からないのだが、祐一の認識では三人は家族なのだ。
「血がつながっていようが殺し合う親子や兄弟だってざらにいるんだ。それなら血のつながっていない、そして親子とか兄弟姉妹とか夫婦とか、そんな続柄とは無縁の家族があったっていいと思わないか?」
 言葉にするとこうなる。
 祐一は一息ついてカップをふたたび手に取った。
 思い出したように香里もコーヒーを飲む。少し冷めていたけれど、それでも充分においしかった。
「……そうね」香里はふっと微笑んだ。「そういう家族があってもいいわね」
 そこで会話が途切れた。
 祐一は冷めてしまったコーヒーを飲み干すと、テレビから流れてくるスポーツニュースを眺めた。香里も同じようにブラウン管の画像をなんとなく目にしていた。。
 やがて、ゴルフだのなんだのという話題が一段落してから、桜が映し出された。どこかの公園なのか、夜だというのに酒を飲んで騒いでいる団体の姿もあった。
「へえ、桜か……。そうか、もうそんな時期なんだな」
「東京の話でしょ」香里はにべもない。「ここの桜が咲くのは、まだずいぶんあとよ」
 卒業式や入学式に桜が咲くなどという光景は、この街には無縁のものだった。春の訪れというが、その春の到来そのものが北国では遅いのだ。
「そうなのか?」
 疑問らしきものを口にはしてみせたが、祐一は納得していた。どう考えても桜が咲く気温ではなかった。マスメディアは、東京を基準にしてしかものを考えないということを、祐一はここに来てようやく実感として理解できるようになっていた。
「ええ、そうね……だいたい、ゴールデンウィークのころかしら」
 まだ一月以上も先のことだ。それまで冬に近い気温が続くのかと思って、祐一は思わず首をすくめる。
「でも、花見というのは悪くないな。佐祐理さんに弁当を作ってもらって……」
「はいはい。好きにしなさい」
 香里は呆れたようなため息をもらすと、空のカップを持って立ち上がった。そろそろ布団に入ろうというのだろう。
 祐一は香里のコーヒーカップを持つ手を押さえた。
「いいって。香里はお客さんだろ。俺が片付けておくよ」
「そう? 悪いわね、相沢君。それじゃ、おやすみなさい。あまり夜更かしをしないようにね」
「……俺は子供か?」
 猫模様のパジャマが扉の向こうに消えた。祐一もあくびを漏らすと、ふたり分のカップを手にして立ち上がった。


 人類の行く末もかくやというしかつめらしい表情で、舞は考え込んでいた。眉間に寄った皺が、彼女の悩みの深さを表している。
 舞に与えられた選択肢は三つだった。残念ながら、複数の選択などといった折衷案が許されないのは、状況から明らかだった。唯一の救いは、かつて夜の校舎で魔物を相手に剣を振るっていたときに比して、悩む時間が充分以上に与えられているということだ。
 だが、あるいはその時間的余裕が舞の足枷になっているということもできた。一瞬しか判断のための時間が与えられなければ、舞もいまのような苦悩を抱えていることはなかっただろうから……。
「お前、なにか他のことを考えているだろっ」
「……そんなことはない」
 三等分された佐祐理お手製のチーズケーキから目を離すと、舞は思考の邪魔をした祐一をにらみつけた。
 いささか剣呑な舞の視線を、祐一はいつもの、無意味なまでに自信で満ちあふれた表情で受け流す。ひるむどころか、追撃をする余裕さえあった。
「その間はなんだ、その間は」
「……悩んでいただけ」
「チーズケーキくらいで悩むなっ」
「……佐祐理の作ったものはおいしいから」
「まあ、それはそうだし、舞が欲張りっていうこともわかっているんだけど……」
 だからといって、チーズケーキを相手ににらめっこをして、どれが大きいかと頭を悩ませることもないだろう。そういうと祐一は鼻で笑った。
「大学生のやることとも思えないぞ」
 少しむっとして、舞は祐一にぽかっとチョップを入れる。
「怒るということは、多少なりとも自覚はあるんだな」
 そういって笑う祐一を、さらにぽかぽかと叩いてやる。
「あははーっ。舞、祐一さん。お茶が入りましたよーっ」
 佐祐理がトレイにポットを載せてキッチンから現れた。三人の共同生活では、佐祐理がキッチン周りの担当をしているのだ。
 他に比べて技術が多大に要求される仕事であり、なおかつその能力があるのは佐祐理だけだったのが最大の理由だった。誰だって、おいしいものとまずいものがあれば、おいしいものの方がいいに決まっている。
「というわけでタイムオーバーだぞ、舞。どれだ?」
 さっと舞はチーズケーキのひとつを指さした。
「迷った甲斐があったか?」
 祐一がそんなことをいうが、結局舞にとっては即断の方が得意なのだ。
 いつものようににこにことしながら、佐祐理は並べたソーサーの上のカップにハーブティを注いだ。たちのぼる湯気と芳香に、祐一はしばし陶然とする。舞はそんなのんびりとしたことなどすることもなく、さっさとチーズケーキにフォークを入れていた。
「もうすぐゴールデンウィークですね」
 席に着いた佐祐理がいう。
 祐一は手にしたカップ(祐一には信じられないくらい薄くて綺麗なものだ)を丁寧にソーサーの上に載せてから、
「そういえば、もうそんな時期なんだな。桜がまだ咲いていないせいか、全然そんな気がしないけどな」
「……桜、ですか」
 一瞬、佐祐理の表情が消える。浮かびかけた表情を見せまいとして、意志の力で無理矢理押さえ込んだ均衡の結果。そんな無表情だった。
 はっとして舞が注視したときには、すでに佐祐理の顔はいつもの楽しそうな笑顔に彩られていた。
 祐一はそれに気づいていない様子で、にこやかにチーズケーキをつついている。
「桜ならゴールデンウィークのあいだくらいには咲きますよ。ね、舞?」
 佐祐理の言葉から遅れるようにして、こくりとうなずいた。
「また反応が鈍いぞっ」
「……おいしいから」
 祐一にはそういっておく。結局、桜の話はそれで終わりだった。


 空気が少しずつ春めいてきた。制服姿の祐一はいつもの帰り道で歩を進めながら、そう認識する。それまでは冬服にコートを羽織っても厳しい寒さだったのに、それでは暑いと感じるときができるようになってきていた。
 空気の匂いや人の装いといったものも、桜の季節という暖かさを感じさせる。街のあちらこちらに置かれたプランタに植えてある花も、あるいはつぼみをはらみ、あるいは咲きはじめるものさえあった。それが春の匂いだった。
 さらに季節が巡れば、ぬるりとした風も吹くようになるのだろうか。
 太平洋側で育った祐一にとっての夏は、そんな湿度とともにある記憶だ。じっとりと汗ばむ不愉快な季節も、この街の冬の寒さを経たあとでは、懐かしく、待ち遠しいとさえ思えた。
「もう少し、だな……」
 坂の両側に生えた桜並木の、ときがあと少し後押しするのを待ち望むつぼみを見上げてつぶやく。もう数日で、この地にも春が訪れる。
 佐祐理と舞の三人で花見に行けたらどれだけ楽しいだろう。
 久しぶりに帰った従妹の家で流れていたテレビのニュース番組で桜前線の話題が出たときに、そんなことを考えていたことを覚えている。けれど、数日前に桜の話をしたときの佐祐理の表情は、どこか複雑で、素直に日本の春を楽しむという風情ではなかった。
 祐一の様子をうかがうようにそっと視線を向けていたのだから、そのときの佐祐理の無表情には舞も気づいていたはずだった。
 けれど、祐一はその舞の表情になぜか気づかない振りを装った。その行動原理は、祐一自身にもわからなかった。
「毎度ながら、長い戦いだったな」
 坂を上り終えたところで、勝利を片手にそうひとりごちる。
 運動不足のせいで多少乱れた息を整えながら顔を起こすと、視界ではわりあいにラフな服装の佐祐理がたたずんでいた。
 買い物帰りなのだろう、食材をいっぱいに詰め込んだ近所のスーパーの白いビニル袋を両手にぶら下げて、黙然と桜のつぼみを見上げている。
 袋の端からひょっこりと飛び出たネギがそよ風にあおられて、メトロノームみたいに揺れていた。
 声をかけようと口を開きかけ……祐一はふたたび口を閉じた。桜を見上げる佐祐理は、どこか暗く虚ろな表情を浮かべていた。佐祐理らしくない表情があるとすれば、いま以外のどれだというのか。ふとのぞいてしまったその表情に、祐一は動揺した。
 自分になにかできることはないだろうか。祐一は言葉もなくたたずむ佐祐理を見つめて思う。家族なのに、家族だからこそ、例え自分が年下で、佐祐理と舞のように長いつきあいではないとしても、佐祐理には頼って欲しいと思う。
 意を決して佐祐理に声をかけようとした瞬間、佐祐理が偶然に振り返って視線がぶつかった。一瞬驚きの表情を浮かべたあと、普段どおりの笑みを浮かべて、佐祐理は祐一の方にぶんぶんと手を振った。
「祐一さーんっ。お帰りなさいーっ」
 陰は完全にぬぐい去られて、いまの佐祐理からは、先のたたずまいはなにもうかがえなかった。
「おうっ」
 早足で歩くと、祐一は佐祐理の横に並んだ。
「あははーっ。祐一さん、お帰りなさいにはただいま、ですよーっ」
 にこにこと佐祐理は笑う。いつか誰かにいわれたような台詞だなと思いながら、
「まだ家じゃないからな。ただいまは家までとっておくもんだ」
「それもそうですねー」
 佐祐理の握りしめた買い物袋をひょいと取り上げる。肉やら野菜やら牛乳やらがいっぱいに押し込まれたそれは、想像できないほどに重かった。どこをどのようにすれば、ただの買い物用のビニル袋に、これだけのものが押し込めるのだろう。まるで魔法のだと祐一は思った。第一、こんなものを佐祐理の細腕でふたつも抱えていたということだって信じられなかった。
 一瞬遠慮するような表情を浮かべたあと、佐祐理は祐一に礼をいった。
「祐一さん、ありがとうございます」
「いいって。俺たち、家族だろ? それに、どうせ俺の腹に入る分の方が、佐祐理さんが食べる量よりずっと多いんだしさ。あ、それとも舞の方が多いかもな。あいつ、ああ見えても大食らいだからな」
「あははーっ。そんなこというと、舞にいいつけちゃいますよーっ」
 舞にぽかぽかと叩かれる場面を想像して祐一は口元をゆるめた。
「笑っていた佐祐理さんも同罪だぞ」
「そうかもしれませんねーっ」
 くすくすと佐祐理も笑う。
 袋のなかをのぞき込んで、材料から祐一はきょうの夕食のメニューを想像してみる。が、そもそもレシピもさして知らず、また、使い残しの様々なものが、まな板と包丁で佐祐理に優しく揺り起こされるのを待ち望みながら、マンションの冷蔵庫で眠っている以上、正解など得られるはずもなかった。だいたい、佐祐理の料理の腕は玄人はだしのものなのだ。たとえばコロッケを手作りにするような人間が作るものなど、材料からではとても想像できなかった。
「うーん」
 買い物袋をのぞき込んで考え込んでいる祐一を見て、
「祐一さん、どうかしましたか?」
「きょうの夕飯はなんだろうって考えてみたんだけど、全然わからなかった……」
「そうですか」佐祐理は笑うと、「それはお楽しみですよ。祐一さんも舞も、幸せそうに食べてくれますから、佐祐理も作っていて嬉しいです。大好きな人たちが、佐祐理の作ったものを食べて幸せになってくれる。こんなに嬉しいことはないですから」
「そっか……」
 祐一は重みに痺れてきたために、ビニル袋と鞄を持つ手を入れ替えた。
「佐祐理さんがそうやって幸せを感じてくれるっていうのは、俺も、それに舞も嬉しいって思ってる。だからさ、佐祐理さんが困ったときとか辛いときは、ひとりで抱え込んだりしないで、俺たちに頼ってくれていいんだ。頼って欲しいんだ。俺なんか、佐祐理さんよりも年下で全然頼りないけどさ。それでも、人に話すだけで楽になれる、そういうことってあるだろ?」
 そういう祐一を佐祐理は黙って見つめた。祐一は佐祐理に真剣な眼差しを向け、黙って言葉を待った。
 いつの間にか、ふたりは立ち止まっていた。カーステレオの騒音を撒き散らしながら、脇の車道を白いセダンがゆっくりと走り抜けていく。その姿が視界から完全に消えてから、
「ありがとうございます、祐一さん」
 傾きはじめた太陽に朱く染まりながら、佐祐理は微笑みを浮かべてみせる。
 祐一はそのままじっと佐祐理の瞳をのぞき込んだ。
 佐祐理は一度口を開き、ためらったようにふたたび閉ざす。彼女の懊悩を祐一はもどかしく思いながら、黙って言葉を待ち続けた。どちらかといえば押しの強い祐一にしては、非常に控えめな行動といえた。
「祐一さん」
 佐祐理はそっと口を開いた。
「もしよろしければ、今度のおやすみのあいだに、祐一さんと舞と佐祐理でお花見に行きませんか? ずいぶん遠いところですけれど、桜がいっぱいに咲いているところがあるんですよ。いかがですか?」
「花見か……いいな」
 祐一はうなずいた。
「佐祐理さんが推奨するんだから、きっと綺麗に咲いているんだろうな」
「ええ、それは保証しますよ」
 佐祐理は微笑んだ。


「らくだ」
「だちょうさん」
「うし」
「しか」
「かもめさん」
「めだか」
 窓の外をせせらぎが流れている。行く先に咲く見事な桜を予想させるかのように、細い川の流れは舞い落ちた桜で一面に染まっていた。
 ゴールデンウィークも終わるというころになって、祐一たち三人は佐祐理の案内で花見という目的のピクニックに出かけていた。そしていまは、バスに揺られながらしりとりをしていた。高校生か大学生かという男女三人が、しりとりに興じている姿は人目を引いたが、三人はともに気にした様子もなかった。
「……からくれないに水くくるとは」
「ふぇ?」
 佐祐理の《めだか》という言葉を受けて、唐突に祐一がしりとりからかけ離れたことをいった。確かに《か》で始まる言葉ではあるのだが、どう考えてもしりとりのルールを無視している。
 いつも負けてばかりの上に、祐一にそれをからかわれ続けているせいか、舞は得意げにいった。
「……祐一の負け」
「そうじゃなくてだな」
 子供みたいな舞の様子に口元をあげると、祐一は窓から見える淡く染まった川の流れを指し示した。
「……桜がいっぱい」
 身を乗り出すようにして窓から外を眺めた舞が、祐一の示したそれにため息をもらした。佐祐理の方は、前にもこの光景を見ているのか、驚いた様子はなかった。
 自分には似合わない発想だと思って照れくさそうに笑いながら、祐一はなんとなく耳に残っていた首を口にする。
「ほら、百人一首にあっただろ。《千早ぶる神代もきかず竜田川からくれないに水くくるとは》だったっけ? あれの桜版っていう感じがしてな」
「そうですね。紅葉ではないですけれど、よく似ている風景ですよね」
 佐祐理もまた、窓の外を見つめている。あるいは、桜の流れを通して別のものを見ているのではないか。祐一はそう思った。ここへ花見に来るきっかけが、佐祐理の暗い陰にあった以上、その発想は自然だった。驚きも感慨も、なにも表に出ていないというのは、それだけ抑制が利いているということだろう。
「それにしても、あんなにいっぱいの花びらが流れるだけの桜なんて、俺には想像もできないぞ」
「……きっと、とっても綺麗」舞は微笑んだ。
「そうですよ。とっても綺麗な桜が、いっぱい咲いています。昔はそれほどでもなかったんですけれどね」
「昔は……って」祐一が訝しんだ。「ここ最近のことなのか?」
「最近……といっても、もう十年以上経っていますよ」
 十年を最近と思うか、遠い昔ととるかは微妙なところだった。
 笑みをわずかに深くすると、佐祐理は元気よくいった。
「さあ、次のバス停で降りますよーっ。ちょっと歩きますからねーっ」


 ひらひらと、ひらひらと、薄い紅とも白ともつかない無数の桜の花びらが、柔らかな風に乗り、ときには吹き荒れる風に渦を巻きつつ、まるで散り急ぐかのように舞っていた。薄い雲のかかった空を背に緩やかに宙を踊る数え切れない桜色は、まさに春の吹雪の名にふさわしかった。
 なんと表現すればよいのだろう。祐一の頭の隅で、目の前の光景を表そうと様々な言葉がぐるぐると回る。だが、すごいとか綺麗とかいったありふれた言葉も、あるいはどれほどに飾り立てた言葉も、目の前の桜をいい表すには不足だった。
 祐一たちの住む町からここに来るまで、電車とバス、そして徒歩をあわせて二時間近くが必要だったが、祐一は遠路はるばるやってくるだけの価値はあったと目の前の桜並木を評価した。しかも、花見をしている人間が誰もいない。バス停から山道をかなり歩かなければならないからだろうか。
 先ほどまで舞、佐祐理と三人で、桜を堪能しながら弁当をつまんでいた。騒ぎすぎた疲れと、ふんわりとした春の陽気のせいで、舞と祐一はいつしかうたた寝をしていた。が、人の動く気配に祐一は目を覚ました。
 目を開けると、佐祐理がふたりのいる場所から離れて行こうとしていたため、祐一は肩にもたれて眠る舞を起こさないようにして、そっとあとを追ったのである。
「それにしても、これだけ桜が咲くところあるなんてな……」
 ひとりごちた祐一は、自分の声が意外に大きかったことに気づいて、慌てて離れた場所にたたずむ佐祐理の方をうかがった。佐祐理がひとりでここへ来たの理由がわかるまでは気づかれたくはなかった。
 佐祐理が祐一の声を耳にした様子はなかった。積もる雪のような桜を身にまとったまま、ただ桜を見上げている。だからといって、桜の輪舞に魅入られているという感じでもなかった。それどころか、むしろ深い哀しみ、やるせなさ、後悔といった感情が渦巻いているようにさえ思われた。
「やはり、一弥なんだろうな……」
 気づかれていないという事実に安堵するよりも、見慣れない佐祐理の表情に、祐一は彼女以上に顔を歪めた。
 普段は滅多に笑みを絶やすことのない佐祐理が、こんな虚無的といってもよい表情を浮かべるのは、夭逝した彼女の弟の一弥が絡むときくらいのものだった。佐祐理が《正しい》と信じていた方針に従って接した結果、一弥は生きることに、そして姉に対しても恐怖心しか抱かなかった。結果、一弥はもともとの体の弱さと精神的なストレスから伏せるようになり、小学校に上がる前にこの世を去った。
 そして、その死はいまもなお残る深い傷を佐祐理の心に残した。
《ひとは、ひとを幸せにして、幸せになれる》
 大切な弟の一弥の死という代償を支払って得た佐祐理のなかの真実がこれだった。だから、佐祐理は自分にとって大切な人のためにはいかなる犠牲もいとわないのだ。しかし……
「……祐一さん?」
「はい?」
 かけられた声にふと目を上げると、白のハーフコートに桜を積もらせた佐祐理が、自分の考えに夢中になっていた祐一の顔をのぞき込んでいた。視線と視線がぶつかる。ふわりと、佐祐理からかすかな香りが漂ってくる。ふだんと変わらない、優しい香りだった。
「……うおっ!?」
 慌ててその場を飛び退いた祐一は、足下の桜の根っこにけつまずいてバランスを崩した。
「ゆ、祐一さん!?」
 佐祐理の驚いた声を聞きながら、祐一は二度、三度ふらついたあと、足を広げてなんとか踏みとどまった。手近な桜の木に手をかけて、動揺に飛び跳ねている心臓と呼吸を落ち着かせる。
「び、びっくりした」
 深呼吸を繰り返してから、ようやくそれだけを口にする。
「あははーっ。佐祐理もびっくりしましたよ」
 にこやかに答える佐祐理の表情は、しかし、普段と違って先ほどまでの陰影をわずかに残していた。それはここしばらく見慣れた顔だった。祐一はまじめな顔をして佐祐理を見つめた。
「ふぇ……。祐一さん、どうしたんですか? 佐祐理、どこかおかしいですか?」
「ああ、変だよ」
 間髪を入れずに祐一が答えると、びっくりした顔になって、佐祐理は両手を挙げたり、精一杯背中を見ようとしたりして、コートやらパステルブルーのセーターやらの様子を確かめだした。
 しかし、どんなに見ても、降りしきる桜の花びらがたくさん張りついているだけで、他におかしいところなどなにもなかった。
 そんな慌てた様子がおかしくて祐一が軽く吹き出すと、佐祐理は顔を赤らめて、「祐一さん、意地悪ですよーっ」ぷいと横を向いてちょっとだけ頬を膨らませる。
 年上らしくないそのかわいらしい仕草に、祐一はますます笑いをこらえきれなくなった。
「いや……悪い悪い。我を忘れて、ぼーっと桜を見上げてる佐祐理さんが、なんか可愛くてね」
 《ぼーっと》というところを強調するように祐一はいう。笑いはこらえきれないままだった。
「あははーっ」佐祐理は祐一の言葉に照れたような笑いを浮かべた。「桜を見上げていたら可愛いのなら、ここへ来た人はみんな可愛くなっちゃいますよ」
「そんなことはないぞ」ちっちっち、と祐一は指を振る。「たとえば、俺がさっきの佐祐理さんと同じように桜の下でたたずんでいたら、どの枝を持って帰ろうかと見つくろっている、ただの怪しいやつにしか見えないからな」
 目つきを悪くすると、桜を物色するように眺め回してみせた。
「そんなことないですよ」佐祐理は一言で祐一の言葉を否定した。「祐一さんは素敵な人ですから、花泥棒なんてしませんよ。佐祐理にはわかりますから」
 そういうと、心を虜にされたかのように、ふたたび桜を見上げてため息をついた。
 やがて浮かべていた笑みが引く。祐一はまじめな顔で佐祐理を見つめた。
「そのさ……。そうじゃなくて……一弥、なんだろ?」
 同じように笑みを消した佐祐理は、表情のない顔で祐一を見返した。
「いまもさ、笑ってるように見えて、なんか翳りがあるっていうか……。心から笑っているっていう感じがしないから。正直いってさ、そんな佐祐理さん、俺は見ていられないよ」
 佐祐理は黙って祐一の瞳をのぞき込んだ。祐一は静かに見つめ返す。しばらくそのままでいた佐祐理は、やがて表情を崩した。先ほどのそれとはまた違った、いくつかの感情が翳りを生み出す。
「それで……いまも佐祐理を付けてきたんですか?」
「まあ、そうなるかな……」
 佐祐理の言葉に非難の色はなかったが、祐一はそれでも自分のしていたことに後ろめたさを感じて、曖昧に語尾を濁した。
「かないませんね……祐一さんには」
 そういって浮かべた笑顔は、本来の佐祐理のそれとは違って、ただ痛々しいものだった。
「桜が綺麗なのは、その根元に人が埋められているから……」
 佐祐理は祐一に背を向けると、先ほど立ちつくしていたところにゆっくりと歩き出した。佐祐理からわずかに遅れるようにして、祐一はそのあとに続いた。
「……死体の血を、肉を、そして心を吸い上げているから綺麗……。よく、そういいますよね」
「ああ……」
 祐一は曖昧に相づちを打った。自然と表情が曇る。
 佐祐理は立ち止まると咲き誇る桜を見上げた。
 吹雪のように降り注ぐ花びらは、しかし白ではなく薄い紅に染められている。血で染まった雪を連想して、祐一は軽く首を振った。
 佐祐理の表情の影が増す。
「ここの桜……綺麗ですよね。例えようもないくらいに」
 祐一にはもはや相づちを打つことさえかなわない。
「ここには一弥の心が、正しくない姉によって砕かれた一弥の心が眠っているんです。一弥の心を映しているから、ここの桜はこれほどにも綺麗なんですよ」


「一弥が生きていたころ、佐祐理と一弥とお父様とお母様とで、ここへお花見に来たことがあるんです」
 優しいリズムで舞い降りる桜の花びらが、子供の手のように佐祐理の頬を撫でていく。そよぐ風になびいた髪が頬にかかるのを、そっと手でなでつけて佐祐理はいった。
「一弥がまだ幼稚園に入る前のことでしたから、もう十年近くになります。お父様もお母様も忙しくしていましたから、本当ならきっとお花見なんてしている暇はなかったんでしょうけれど、ちょうどお仕事を休める日が重なったので、家族で出かけることができたんです。それで春だから……とお花見をすることになりました。それが家族四人で遊びに出かけた、最初の……そして、最後のことでした」
「ここ……って、子供がやってくるにはちょっと遠くないか?」
 歩いた山道を思い返すように、視線を麓の方角に向けて祐一はいった。
「そうですね。特に幼稚園に上がる前の、幼い一弥にはとても辛いところでした。泣きそうな顔をしたりしたら、佐祐理は《とっても綺麗な桜が見えるんだよ》といったり、あるいは叱りつけたりして、疲れきった一弥を無理矢理歩かせました。桜を見て、綺麗と思って笑う一弥が見たかったから……」佐祐理はうつむいた。「ひどい話ですね。幼稚園に上がるか上がらないかの子供が、桜を見るために辛い山道を登るなんてできるものではないんですから。なのに、佐祐理は必死に付いてきて、脚を引っかけて転んだ一弥に手を貸しもしなかったんですよ。泣いているのになんていったと思います?」
 祐一はわからないというように首を横に振った。
「《泣かないで、ちゃんと歩きなさい》っていったんです。いまになれば、なにをいっているのかって思えますけれど、そのころはそれが……辛いことを我慢して努力することが《正しい》ことだって信じていたんです。お父様もお母様も、佐祐理に一弥の面倒を一任してくださっていましたから、先に登っていて、もう姿は見えなくなっていました。そのときは自覚していなかったですけれど、小学生の佐祐理にはそれが不安だったからということもあるでしょうね。そのせいで佐祐理は一弥を急かしました。自分の不安を一弥に転嫁して、ただ苦しめたんです」
 佐祐理は祐一から離れるようにゆっくりと歩き出した。祐一が追ってくる気配を背後に感じる。
「一弥だって佐祐理とふたりだけになってきっと心細かったはずなのに、なにも口答えをしたりはしませんでした。あの子は優しい子だったから……」佐祐理は目を伏せる。「いえ、そんないいわけなんて間違っていますね。きっと、佐祐理のことが怖かったんでしょう。生きていくことの楽しさをなにひとつ教えてくれない姉。そんな姉のいうことに従わなければ、罰を与えられる。それが佐祐理のしていたことでしたから。まだ一弥がミルクを飲むような赤ちゃんのときから、佐祐理はそう振る舞ってきたんです。一弥の心のなかの佐祐理という正しくない姉は、一弥が生まれてきてしまった恐ろしい世界の代表そのものだったのだと思います」
 立ち止まって振り向いた佐祐理は、表情を歪めている祐一を見た。
 佐祐理の暗い過去を聞かされて、我がことのように思ってくれているのだろう。そう思って心のなかで謝罪する。だが、いまここで勢いにのせて話さなかったら、このことは一生佐祐理の心のなかにしまい込んだままになるだろう。そんな気がした。
 そして、祐一には知っておいて欲しい。祐一に語っておきたい。そんな感情が佐祐理のなかにあったから、祐一から視線を逸らして、自己嫌悪と言葉を重ねる。
「そんな風にしてようやく頂上にたどり着きました。お父様とお母様は先にたどり着いて佐祐理たちが来るのを待っていて下さいました。そこでようやく一弥と佐祐理は人心地つくことができたのです」
 佐祐理は一度目を閉じると再び歩き出した。足を向けるのはただ一本の桜の木だ。
「食事のあいだ、佐祐理は一弥が箸を正しく使えているかどうか、そんなことばかり気にしていました。桜を見に来たはずなのに、気がつけば、いつものように一弥を《正しく》育てることばかり考えている……。桜を楽しむ余裕がなかったのは、一弥ではなくむしろ佐祐理の方でした。ですけど、やっぱりそのときには、当たり前のそのことにも気づけずにいました。それでも食事のあと、佐祐理はひとりでこの桜のなかを歩いて、その美しさを堪能することができました」
 あのときと同じように、桜はゆっくりと降り積もる。
「帰る時間が来たのでお父様とお母様のもとに戻ると、一弥がいなくなっていました。面倒を見なくてはならないはずの佐祐理がひとりで歩き回っていたせいでしょうね。ここは人の手が入っているとはいっても山の上です。子供が歩き回っていては危ないところだっていっぱいあるでしょう。それで、慌てて手分けをして一弥を捜すことになりました。あちこちを走り回ったあげくに、一弥を見つけたのは佐祐理でした。桜の園の端、少し高いところに生えた桜の幹の下に一弥はうずくまっていました。遠目に見る一弥は、普段と違って優しい表情でいました。そんな一弥を見たのははじめてでした。でも、佐祐理の呼びかけに身を震わせて振り返った一弥は、もういつもの怯えた表情に戻っていました。佐祐理は一弥に近寄ると、お父様とお母様に心配をかけたことを厳しく叱りつけました。一弥はうなだれるように佐祐理の小言を聞くと、逃れるようにお父様とお母様の待つ方へ歩き出しました。佐祐理もいっしょに行こうと思ったときに、ふと一弥がなにをしていたのかと思って、うずくまっていたところに視線を向けました」
 祐一が隣ではなく一歩後ろをついてきてくれていてよかった。佐祐理は自分がいま浮かべているであろう表情を想像して思った。
「そこにはなにかのひなが一羽、転がっていました。すでに息絶えたのは明らかでした。全身がついばまれて肉がのぞいていて、さらには虫までもがたくさん群がっていました。そのときの佐祐理は、ただ、男の子が興味を持つものって不思議だなと思っただけでした。けれど、いま思えば、それが一弥が自分を解放してくれるものがなにかを知ったときだったのでしょうね。一弥は死に魅せられたのです。死にたいと願う心が、それからの一弥の体をゆっくりと弱めていきました。気がつけば、もう取り返しのつかない状態になっていました。そのときになって、佐祐理はようやくこの桜の降るところで見たものの意味がわかりました。《そうじゃないんだよ、生きていて楽しいことだって、いっぱいあるんだよ》 一弥にそう教えようと、お菓子や水鉄砲を買い込んで、佐祐理は一弥の病室に忍び込みました。そこで一弥は生まれてはじめて佐祐理の前で笑ってくれました。けれど、それはもう手遅れでした。このあたりのことは、いつか祐一さんにもお話ししましたよね」
「……ああ」
 押し出すような声で祐一は答える。
 やがて視界が開けた。桜の園の端、はるかな遠くを見透かすことのできる場所だった。ところどころに淡く雲がかかった青空。天候のせいか遠くは霞がかかったようにぼんやりとしている。崖に近い場所には、佐祐理の記憶どおりに桜が生えていた。そこへ佐祐理はゆっくりと歩み寄った。
「……これが、いまのお話に出てきた桜です」
「この桜の木が……」
 佐祐理の横に並んだ祐一が、桜をふり仰いだ。この地に生えている桜はどれも美しく立派だったが、それはひときわ見事なものだった。しっかりと地に根を張り巡らせて天に向けそそり立つ様は、根元に眠る一弥の心が、どれだけ純粋なものだったかを示しているようだ。
 佐祐理はあのとき一弥がうずくまっていた場所へと視線を向けた。もちろん、あの時一弥が見つめていた鳥の死骸の名残などどこにもないのだが、佐祐理の心にはそれがいまもリアルな映像として思い浮かぶ。
 ついばまれた一弥の心。
 傷つけたのは佐祐理。
「この桜は佐祐理の背負った罪の証なんです。愚かな姉が、弟の短い一生を台無しにしたあげくに殺したという。だから佐祐理は、今度こそ、佐祐理にとって大切な人を」佐祐理は祐一の真摯な瞳を見据えて宣言する。「祐一さんと舞を、なにを犠牲にしてでも幸せにします。絶対に。祐一さんと舞の幸せが、佐祐理の幸せですから」
 佐祐理の言葉とともに吹いた風が、コートの裾をはためかせ、いっそう桜を舞わせた。その桜吹雪のなか、祐一はひどく苦い表情を浮かべていた。


「佐祐理さんは大切な家族だから」祐一は佐祐理を見つめていった。「大切な家族だからこそいうけれど、それは迷惑だ」
 明確に口にすると、胸の奥がひどく痛んだ。大切な家族の生き方を根本で否定する。これほどに辛いことが他にあるだろうか。だが、たとえそうであってもいわなくてはならないことのはずだ。
 ただの知り合いであれば、表層だけ取り繕って生きていけばいい。だが、祐一にとって佐祐理はそういう存在ではなかった。口にすることで決定的な溝が生まれてしまうとしても、自分の考えを伝えておきたかった。それに値する人間だった。
「迷惑……ですか?」
 祐一の言葉に、佐祐理は訝しんで鸚鵡返しにつぶやく。予想していなかった反応なのだろう、全身から当惑の気配が伝わってきた。ひらひらと舞い散る桜の花弁がその髪に、服に積もっても、払うことを忘れて祐一を見つめている。
「そう、迷惑だよ。舞の考えはもちろん舞自身に聞いてみなければわからないけど、少なくとも俺は佐祐理さんを犠牲にして幸せをつかみたいなんて思ってない。そんな、自分にとってかけがえのない人を虐げて手に入れる幸せなんてごめんだ。いや……」
「佐祐理は……祐一さんと舞と、ふたりに幸せになって欲しいだけなんですよ」
 思いもかけないほどに強い佐祐理の言葉。いままで見たこともないほど強靱な意志をこめた視線が、祐一を射抜いた。
「違うだろ」
「ふぇ?」
「佐祐理さんが幸せにしたいのは、舞でもなければ俺でもない。佐祐理さん自身だよ」
「そんなこと……」
「ないといえる? 俺と舞を幸せにするのが佐祐理さんの幸せだっていっただろ? それは……いいかえるとわかりやすいかな。佐祐理さんが幸せにしたいと思っているのは、俺たちじゃなくて、佐祐理さんの心のなかの一弥だよ。佐祐理さんが不幸にしたって後悔している弟の身代わりを求めているだけじゃないのか? 佐祐理さんの話を聞いていると、俺にはそうとしか思えない」
「……確かにそうかもしれませんね」
 佐祐理は祐一の意見を首肯し、その上でいった。
「けれど、それは誰だって大なり小なり同じではないですか? 自分の過去の過ちを繰り返さないように、昔の失敗といまを重ねて行動するのは。それが成長であり、経験でしょう?」
「それはね。ある程度は仕方のないことだと思う。でも、佐祐理さんはどこか……行き過ぎなんじゃないかな。佐祐理さんが願う俺たちの幸福と、俺や舞の思い描く幸福のベクトルが全然違ったら、それは不幸だろ」
 それまでと違った冷たい風が桜の花びらを載せて吹きつけ、祐一は軽くその身を震わせた。一弥が、姉に言葉の刃を突きつける男に怒りをぶつけているのだろうか。頭の片隅でそんなことを思い、一瞬桜の樹をあおいだ。
 視線を戻していう。
「佐祐理さんが願う俺たちの幸福のなかにさ……佐祐理さん自身の姿はあるの?」
「もちろんですよ。祐一さんと舞の幸せが、そのために力を尽くすのが佐祐理の幸せなんですから」
 いったいなにをいえば佐祐理が納得してくれるのだろう。
 祐一の評価では、佐祐理は非常に頭の良い人間のはずだった。なのに、どうして祐一のいいたいことがこうも伝わらないのだろう。
「祐一さんは誤解しています。三人で笑っていられるためにできる限りのことをするのが、佐祐理にとっての幸せなんですよ。祐一さんと舞が幸せになって、それが佐祐理の幸せになる。それでみんな幸せなんです。みんながお互いを幸せにしているんです」
「じゃあ……もし、俺が舞や佐祐理さんの幸せのために犠牲になろうとしたら、佐祐理さんはどうする?」
「止めます」
「だったら、佐祐理さんが犠牲になろうとするのを止めるのも当然だろ」
「そうかもしれません。けれど、祐一さんは根本で認識を誤っていませんか。祐一さんはそうでないかもしれませんが、佐祐理はたとえ自分が犠牲になっても祐一さんと舞さえ幸せなら幸せなんです。笑っていられるんですよ」
 のどの奥が焼けつくようないらだちを感じて、祐一はつばを飲み込んだ。
「そうやって、佐祐理さんが傷ついて、戦っているときに遠くでへらへらしていろっていうの? そんなこと、俺には無理だよ。俺は佐祐理さんに母親役も保護者役もして欲しくない。そんな風に他人の定義する幸せを押しつけられるのは、もううんざりなんだ。いいか、佐祐理さん。佐祐理さんが定義している俺の幸せは、決して俺の本当の幸せなんかじゃないんだ。俺や舞を幸せにしたいと思ってくれるなら、それをもう一度よく考えてくれ」


 タイヤとアスファルトがもたらす絶え間ない振動が、心地よく祐一を揺さぶっていた。
 窓の外の細い川いっぱいに流れる桜の花びらは、茜色の残光に照らされて、午前中、祐一が口にした歌そのもののように赤一色に染まっていた。秋には紅葉がこうやって川を紅に染めるのだろうか。
 視線を窓から離す。バスの正面から差し込む夕陽に、祐一はわずかに目を細めた。沈みゆく陽の光というのは、どうしてこんなに郷愁を感じさせるのだろう。日が沈むまで泥まみれになって遊んだ記憶が、重ね録りしたカセットテープみたいに、無意識下で再生されているからなのかもしれない。
 隣の席では、佐祐理と舞が楽しそうにあやとりをしていた。いつもなら祐一も参加して場を混乱させているのだが、きょうはその気になれずに断ったのだ。その反応に、祐一は自分が思ったよりも機嫌が悪いことに気がついた。
 原因は明白だった。桜の木の下で聞いた佐祐理の罪の告白が、祐一をいらだたせていたのだ。
 弟の一弥に対する佐祐理の罪の意識は、同居をはじめる前、まだ佐祐理たちが高校に通っていたときに聞いていた。だから、ある意味佐祐理が舞に一弥を重ねていることも知っていたし、それはある程度仕方がないことだと思う。人が過去の過ちから学ぶというのは、そうやって現在と過去を重ね合わせるという行為だからだ。
《相手に幸せを与えて、みんなで一緒に幸せになる》
 佐祐理から聞いた佐祐理の幸せに対する考え方がこうだった。祐一はずっとこの言葉の意味は、お互いがお互いのことを考えて幸福になるということだと思っていた。それは限りなく優しく振る舞うということ。
 だが、それは誤解だった。
 佐祐理の幸せは、舞と祐一を幸せにすること。祐一たちが幸せなら、自分がどうなってもいいというのは、祐一にはとうてい受け入れることができない考え方だ。そんな、大切な人の犠牲の上で成り立つ幸せなんていらない。いや、そんなものは幸せでもなんでもない。
 どうして佐祐理の幸せの定義と、祐一の幸せの定義とに、埋めがたい隙間があることに気がつかないのだろう。
《この桜は佐祐理の背負った罪の証なんです》
 佐祐理の言葉が脳裏をよぎった。
 罪に対して与えられるものは罰だ。ひょっとしたら、佐祐理は自分が犠牲になってでも祐一たちを幸せにすることで、一弥を苦しめ、死に至らしめたという罪をあがなうつもりなのではないか。それならば、自分の幸せの定義が、祐一たちの幸せのそれと違うことも納得ができる。
 けれど、それは違う……。佐祐理がひとり傷ついてそれで誰かを幸せにしたって、きっと一弥は喜びはしない。最期に一弥は佐祐理に笑ったのだ。それは佐祐理への赦しだと思いたかった。
「な、そうだろう、一弥君……。お姉さんを……」
 それはまどろみゆく祐一が、咲き誇る桜のもとに眠る少年へ向けた祈りの言葉だった。


Written by SNOW 2000