アンバランス・ブルー

 木造住宅の、しかし決して薄くはない壁越しに聞こえてくるくぐもった無数のベルの音が、夢うつつにまどろんでいた祐一に、水瀬家のごくふつうの朝というものを思い起こさせた。いまはまだ春休みだというのにわざわざ早起きをするとはと、きわめて朝に弱い従妹のこと思い浮かべ、祐一は小さく笑った。あるいはきょうも朝から部活なのかもしれない。
 名雪は陸上部の部長であり、普段の茫洋とした人格からは誰も想像ができないことに、なかなかの実力を持った長距離選手だった。あるいは、そのマイペースきわまりない(もちろんわがままという意味ではない)性格が、長距離という世界ではプラスに働いているのかもしれないとも思う。もちろん、陸上なんていうものに、名雪の応援以外に関わることがない祐一には、想像しかできない領域のことだったのだけれど。
 鳴り続ける無数の音階の目覚まし時計のなかで、ばたんという音が廊下から聞こえた。位置からすると名雪の部屋の、おそらくは扉を閉める音だろうと寝ぼけた頭で推測し、それからはてと首を傾げた。血圧が常人の下限を大きく下回っているとしか思えない名雪がこの程度の目覚ましで起きたとは考えにくかった。
 しかし、寝ぼけて夢遊病患者よろしく廊下に出たという可能性はある。そのことに気づいて祐一はため息をもらした。本人いわく慣れているといっても、階段から転げ落ちたら、下手をすれば大変なことになる。なんの音なのか念のために確かめた方がよい。そう判断して、暖かい布団の世界への未練をあくびに載せて吐き出すと、気合いを入れて布団から外に出た。
 暦の上ではもう春のはずなのに、祐一の故郷の冬といい勝負の寒さだった。そのまま布団に後戻りしたくなる気持ちにあらがう。
《暖かくなってきたねー、舞》
《……うん》
《春だねー。どっかお弁当を持って遊びにいこうか》
《……うん》
 昨日の朝のそんなやりとりが思い浮かんで祐一はくすぐったそうな笑みを浮かべた。
「……寒いって」
 声までもが朝の寒さに漂白されている。いっそう凍えたくなる独り言だった。
 一晩会わないだけでこうも懐かしくなるものかと、ともに暮らすふたりの少女の姿を思い浮かべた。これは水瀬家に泊まるたびに感じることだった。自分がもっと根本で冷たい人間なのではないかと想像していたのだが、それは見せかけでしか強さを示せない愚かな少年のような、形だけのポーズに過ぎなかったのかもしれない。
 とはいえ、両親の海外出張によってこの街に来たときには、このような寂しさはまったくなかったし、舞と佐祐理のふたりと暮らすことにして水瀬家を出たときも、やはりさしたる抵抗を感じはしなかった。いてもよい、いることを許された場所と、自分がそこにいたいと思う場所。その差なのだろう。
 震えながらスリッパをはいて上着に袖を通し、タイマー設定までまだ余裕があるヒーターのスイッチを入れる。勢いよくカーテンを開けると、薄い雲越しに弱々しい日の光が差し込んだ。
「だから冬は苦手なんだよな……」
 つぶやきをもらしながら、滑っていく表層的な思考に自分を任せる。
 そのあいだも、目覚まし時計の大合唱に止まる気配はなかった。ここにいたって鳴りやんだらさらに間抜けだなと考えながら、祐一は廊下に出て名雪の部屋に視線を向けた。扉の前に、子猫模様のパジャマの上にカエル模様のはんてんを羽織って、寒そうに腕組みをしている少女が立っていた。
 ひょっとして寝ぼけているのだろうか。そんな疑念を抱いた祐一がうつむき加減の顔をのぞき込んだとき、ちょうど彼女は大きなあくびをしている最中だった。まだ寝ていたいところを予期しないコーラスに無理矢理に起こされた。そういう様子だった。
 首を傾げた祐一の視線と、手で口を隠しながら大きなあくびをもらした彼女の視線がぶつかり、彼女は蛇ににらまれた鼠のようにその動きを止めた。数秒ののち、自分が大あくびの最中だったことに気がついて、慌てたように口を閉じる。かみ殺したあくびが、まなじりからわずかな涙となってにじんだ。
 一カ所だけ寝癖でぴんとはねている髪といい、普段の毅然とした隙のなさからは想像できない様子がひどく新鮮だった。眉毛を描いたりはしていないんだなと、そんなことに気づく。
 思わずじっと見つめたが、しかし、そのわずかに下がっていた精神的なガードをすぐに引き上げて、彼女はふだんと変わらない表情を浮かべていた。
「おはよう。いい朝ね」
「ああ、おはよう。いい朝というには寒くてたまらないけど」祐一はとぼけた表情を作ってみせる。「しかし、一晩見ないあいだにパーマまでかけたのか、名雪」
「なにをいっているの?」
「もちろん、ちょっとした冗談だ」
 香里の冷たい視線を気にせずに祐一は笑いを返した。
「名雪って、きょうは部活とかあるのか?」
「聞いてないわよ」
「ということは、寝ぼけていたせいで香里が泊まっていることも忘れて、いつものように目覚まし時計をかけた……と。しかも本人はいまだに夢のなか。こういうわけか」
「おかげさまで久しぶりに健康的な生活ができたわ」
 投げやりな賛辞だった。本人がいれば皮肉になるのだろうが、たとえいたとしても名雪は気づかないかもしれない。従妹の少女の感性が人のそれからは三メートルほどずれたものだということを、祐一はよく知っていた。
「長生きするな、あいつは」
「真似はとてもできないけどね」
 名雪に対してもう何度目になるのかわからないため息をもらすと、スリッパを脱いで彼女の部屋に足を踏み入れる。自分の部屋とは明らかに違う甘い匂いと、うんざりするほど大きなベルの音の群れが出迎えてくれた。この目覚ましにたたき起こされた香里は不幸としかいいようがない。
「ご主人様はおまえたちの仕事にまるで敬意を払ってくれないみたいだぞ」
 ひとりごちたその声も、自分の耳にさえ届かない。
 後ろでなにか香里がいったようだったが、あまりの騒々しさに到底聞き取れるものではなかった。視線も向けずにひらひらと手をふるのをいい加減な返事に代えて、カーテン越しの薄明かりのなかで部屋を横断する。先ほどまで香里がくるまっていた布団に残る体温が、すでに冷たくなりはじめた足に暖かかった。
 祐一は無数の目覚ましのスイッチをひとつずつ止めはじめた。その脇で別の目覚まし時計が祐一のものではない手につかまれる。廊下に響き渡るあまりの騒音に眉根を寄せていた香里だった。
 ふたりの共同作業で部屋が静寂を取り戻してから、香里はあきれた顔でベッドの上に視線を向けた。見るまでもなく祐一には、香里が見ているものがなにかをいえた。もちろん、起きる気配がまったくない名雪だ。カエルのぬいぐるみのけろぴーを抱きしめて、すうすうと幸せそうな寝息を立てている。祐一には幸せそうでない名雪を見た記憶がないけれど。
「香里はもう一度寝るのか?」
「もう完全に目が覚めちゃったわよ」
 祐一の問いに香里は首を振った。そうだろうなと祐一も首肯する。一度目が覚めてしまうと、なかなかもう一度眠るというのはできないものだ。
「着替えるなら部屋を貸そうか? さっきヒーターを入れたから、もうそれなりに暖まっていると思うし」
「そうね……お願い」
 香里が着替えの服を持ってくる前に自分の着替えを済ませて祐一は下に降りた。
 祐一が予想していたとおり、キッチンにはすでに人が働く気配があった。まさか祐一が降りてくる時間までも予測していたわけではないだろうが、ダイニングルームはすでに人を迎える暖かさにあふれていた。
「祐一さん、おはようございます」
 出迎える声も暖かく、祐一は懐かしさのなかに素直に自分を入り込ませることができた。


 淡い色合いの空には薄い霞のような雲がかかっていて、それがいっそう不完全な青と白とを溶け合わせている印象を強めていた。
 晴れているようで、どこか曖昧な空。
 すっきりとしているようで不透明な空。
 季節もまた、冬と春の境目でいい加減に行ったり来たりを繰り返している。
 目に映るその焦点がぼやけたような空に、いまは記憶の片隅に眠る、佐祐理を支配し続けていたモノクロームの光景を思い出していた。一弥を亡くしたのち高校の入学式に舞と出会うまで、佐祐理にとっての外界は色あせ朽ち果てたものでしかなかった。
 いま見上げている空も、心なしかそのモノクロの世界のものである気がして、佐祐理はコートに包んだおのれの躰を抱きしめた。わずかな指先のふるえを押さえ込むように白い布地をつかむ。白い手の甲に骨が浮かび上がるほどに力を込めて、その痛みで自分という存在を現実に引き戻す。
 はあ、とようやく息を吐き出して全身から力を抜くと、もう一度空を見上げる。少し曇りがかってはいるものの、今度はいつもの空に見えた。
 目に映る光景は心を反映しているとはよくいったものだ。暗鬱な心を持て余しているときと、それを押さえ込んでいるときとでは、同じ空がこれほどかと思うほどに違って見える。それでもどこか虚ろに感じるのは、佐祐理の感性が枯れ果てているからだろう。
 鮮やかな鏡像を得るのは、舞や祐一のように、いい意味で素直な子供の心をなくさずにいられる人間にのみ許された特権だ。そういう人間ならば、日常のささいな光景でさえ、とても美しいものとして受け止められる。
 それは佐祐理には不可能だった。舞や祐一とともにいるときならば、ふたりが感じたものの照り返しを受けることができるのだが、それは死に絶えた月の砂漠が光を反射するようなもので、太陽の輝きには遠くおよばない。
 祐一がいいだした三人での生活に、一番頼っているのが佐祐理だということは、佐祐理自身がよくわかっていた。祐一は自分だけでも人生を享受できる人間だから、佐祐理や舞がいなくても、別の幸せをつかむだろう。いまは幼い子どものような脆弱さを抱えているとはいえ、舞もまた、生きることを愉しむ心を持っている。
 佐祐理だけが、ふたりにもたれかからなければ、生きるという行為に意味を見いだせないのだ。ふたりがいなければ、かつてのようにただ流されるまま、そこにあるまま、惰性で生き続けるだけだ。
 舞が成長して祐一への恋愛感情を自覚するようになったとき、きっと祐一はそれに応えるだろう。そのとき、ふたりにとって佐祐理の存在は邪魔なものでしかなくなる。そのときが来たら自分はどうするのだろう。失ったはずなのに取り戻してしまった世界の暖かさ、鮮やかさを忘れて生きていけるのかといえば、科学による便利さを得た人類がそれを手放すことができないように、たとえ疎まれることになっても、佐祐理が生きている限り答えは否だった。
 コートとシャツの長い袖をめくり、父から贈られた腕時計をはずした。その下に隠れているのは数年前に自らつけた傷だ。白く真横に引かれた傷跡は、けれど脆弱な佐祐理の意志を反映しておぼろだ。死ななければならないと考えた結果ではなく、ただ、生きることに無関心になっただけの、空虚の残滓だった。
 いまの自分なら、ふたりのためにであればなんのためらいもない。いや、ためらわなかったのは過去の自分も同じだが、いまならば、それ以上に自殺を遂行するだけの意志がある。
 爪を立て、傷跡をそっとなぞる。
 ちくりとしたわずかな痛み。
 あのときの自分は痛みなど感じただろうか。自問してみたが、その記憶はかすんでいてほとんど思い出せなかった。その程度に印象の薄い出来事でしかなかった。ただひたすら無関心に、剃刀を握ったままの自分の手と、腕を伝う血を見つめていただけだ。少しずつ、少しずつ意識が遠くなって、ふと目を覚ましたら病院のベッドでひとり横になっていた。
 数日後、退院してようやく両親と顔を合わせたが、父も母も佐祐理を叱ったりはしなかった。娘が自殺騒ぎを起こすことが、政治家である父にとってマイナスなのは疑いがない。にもかかわらず、そのことでなにかいわれることもなかった。
《佐祐理はもう、自分一人で生きていけるから》
 いつだったか、父と母のそんな会話を漏れ聞いたことがある。
 だから、死のうとした佐祐理の意志を尊重した。それだけのことなのだろう。だからいまも、舞と祐一と同居するために家を出た佐祐理の意思を尊重してくれている。ただ、ときおり持ち込まれる見合いに出るように頼まれることがあるだけだ。
 断ってよいといわれているし、佐祐理にもそのつもりはなかった。自分の幸せはそんなところにはない。舞と祐一を幸せにすること。ただそれだけにある。
 一弥を幸せにできなかった代償行為だということは自覚できていたが、それが間違いだとは思わなかった。弟の死が佐祐理という人格を構成する最大の柱になっているというだけのことだ。
「……ふぇっ?」
 佐祐理の思惟に文字どおり冷水が浴びせかけられた、というのはさすがに大げさだったが、雨どいを伝った氷水と朝露が、雫となって鼻の頭に落ちて、それによって鬱なる思考に沈みつつあった佐祐理が引き上げられたのは事実だった。
 苦笑が佐祐理の白い顔を彩った。
 どこか疲れているのかもしれない。三人で暮らすようになって、一弥のことをはっきりと思い出すことは減っていた。きょうに限って鬱になるまで頭から離れてくれないのは、きっとふたりから離れているからだ。
 やはり、自分は舞と祐一に依存しなければ生きていけない。
 舞と祐一の恋愛を望みながら、いまの三人での生活が長く続けばいいというのは、自分のわがままでしかない。
 うっすらと残る傷跡の上から、佐祐理は自分の細い手首を力一杯つかんだ。いつか受け容れるだろう痛みを想像しながら。


「……なに笑ってるの」
 自分を見る母の口元がどこかゆるんでいるのに気がついて、舞は憮然として抗議した。
 口がとがるというのはいまの自分のようなことをいうのだろう。子どもっぽいとか、大学生にもなってとか、そんな風に祐一にはからかわれている癖のひとつだったけれど、どうしても直せなかった。そういう祐一だって昔から妙に大げさなものいいをする癖があるくせに、人のことばかりあげつらうのだ。あとで祐一の頭を叩いておこう。そんなことを心に決める。
「なんだか舞がクマさんみたいだから」
「クマさん?」
「そうよ。舞、気づいてる? さっきから部屋のなかをぐるぐると歩き回って。そんなことしたって、相沢君や倉田さんとの待ち合わせの時間は早く来ないわよ」
 にこにことしながら母親がいうのを聞いて、舞はリビングのソファに腰を下ろして反論した。
「……別にそういうつもりじゃない」
「あら、そう?」
 全然信じていないとしか思えない母の微笑みに、舞はそっぽを向いた。そんな仕草のひとつひとつがどこか子どもっぽいことに、本人は気づいていない。
「お母さんは嬉しかったんだけどね」
「……嬉しい?」
 クマさんみたいに部屋をぐるぐると歩き回っている舞のことが? 舞はきょとんとした目で母親を見つめた。母がなにをもって嬉しいといっているのか、わからなかったのだ。
 その当惑を受け止めるように、ゆっくりと母は言葉を紡ぎだした。
「そう、嬉しいの。舞って子どものころいろいろあったせいもあって人付き合いが苦手でしょう? だから、一緒に住みたいって思うような、そして相手も舞のことをわかって、そして好いてくれる――そんな誰かが、高校を卒業するまでにできるなんて、想像していなかったもの。大学もすぐ近くだし、お母さんがここでひとり暮らすことになるのはもう少し先のことだって、そう思いこんでいたわ」
 ひとり。
 そう、母はここでひとりで暮らしている。舞が子どもだったころの病弱さはもうないけれど、母ひとり子ひとりの生活から本当にひとりで。自分が佐祐理や祐一と笑いあっているあいだ、ここにひとりでいるのだ。
「……お母さん、寂しい?」
「それはもちろんよ。娘と会えなくて寂しくない母親なんて、母親じゃないわ」
 即答に舞は言葉を失う。だが、母は寂しいという言葉とは裏腹に優しい表情を変えない。
「でもね。いつかは親と子は別れるものよ。どれだけ仲がよくても、いつまでも一緒にいてはいけないものなの。舞の旅立ちが少しだけ早かったっていうそれだけのことよ。それにさっき嬉しいっていったでしょう? 舞がもって生まれたものじゃない幸せを外の世界に見つけて、新しい喜びを知っていく。それは確かに寂しいけれど、それ以上に嬉しいことだもの」
 そういうと、本人が気づかないあいだに舞の目尻に浮かんでいた涙を指先でそっとぬぐってくれた。手入れをしていても、歳と家事に荒れていてざらざらと痛かった。昔はこんな風じゃなかった。入院していたときは白く冷たかったけれど、なめらかではあった。
「そうだったかしら」舞の指摘に母は苦笑した。「でも、それは舞のためになにもできなかったからだけでしょう? だから、これも嬉しいこと。若いころにはお母さんも、こんな風に歳をとることが嫌だったわ。でも、いまはそうではないの。舞のために、そして人のために使ったから荒れている。その方が、なにもしない人の手よりもずっと素敵だって。だからお母さんは自分の手が好きよ」
「うん……。わたしも、お母さんの手、ものすごく嫌いじゃない」
 そういって舞は自分の頬に母の手のひらを押しつける。暖かい体温が涙に濡れた頬に伝わる。その手のひらは、頬を伝った涙をぬぐうように動いた。
「ほら、舞。顔を洗ってらっしゃい。目がウサギさんみたいに真っ赤よ」
「……ウサギさんは嫌いじゃない」
 そんなことをいいながら、舞は洗面所に足を向けた。
 鏡に映る自分の顔は、確かにウサギみたいに瞳が赤く、はれぼったい。コックをひねると、勢いよく流れ出した冷たい水で顔を洗う。手のひらがじんとするほどに、何度も繰り返す。あとは時間がたてばわからなくなるだろう。そう思ったところで水を止めてタオルで顔を拭く。
 リビングに戻ると、そろそろ出かける時間だった。
「……じゃあ、行って来ます」
「うん、体には気をつけるのよ」
「お母さんも」
 そんな型どおりの、けれど心のこもったやりとりをして、笑顔に見送られて家を出る。
 心地よい肌寒さのなか見上げた空は、色鉛筆で塗ったように淡い色合いをしていた。ずっと昔に母が病室で咳をしながらお絵かき帳に描いてくれた、柔らかくて優しさにあふれた空。
 いつかは母のように、大切な人間が自分から離れていくことが幸せだと、そう感じられるようになるだろうか。いまはまだ考えたくないけれど、いつの日かは。
 舞は早足でその大切な祐一と佐祐理のもとへと歩きはじめた。


Written by SNOW 2001