北の地の夏は短い。
頬杖をついて、美坂香里は窓の外を眺めていた。
透き通るような青い空を、綿菓子みたいな雲がふわふわと流れている。
まだ八月であるというのに、すでに涼しいから冷たいに移ろいつつある風が、開け放たれた窓から穏やかに吹き込んで、灼熱の日差しに憧れる南の海色のカーテンと、香里のウェーブがかかった髪をふわりとなびかせる。
そのまま駆け抜けた風は、ぱさぱさと机の上に広げられた問題集のページをめくって、香里が解こうとしていた問題をどこかにうずもれさせてしまった。
ため息をついて、香里は問題集をめくりなおす。見たところどうということのない問題だというのに、集中力が欠けていて、どうしても解くことが出来なかった。
何度目かのため息をついたときに、電話の呼び出し音がなっているのが聞こえた。父も母も、仕事に出かけていて留守だったから、香里が出るか無視するしかない。気分転換にでもなればと思って部屋を出た香里は、階段を下りて、玄関のすぐそばにある受話器を持ち上げた。
電話から聞こえてきたのは、暖かい日差しにまどろむ猫のように、どこか甘ったるくてのんびりとした親友の声だった。夏休みに入って以来連絡を取っていなかったせいか、香里は多少懐かしいと感じた。ただ、普段よりも少しテンポの早いしゃべり方が、名雪の緊張を表しているようだった。
《お祭りなんだよ》
近況報告を兼ねた、いつもどおりの会話のあと、名雪が用件を切り出した。
夏祭り。
ちりんちりんと、硝子細工の透き通った音が聞こえて香里は窓を見た。軒につるされている青い硝子の風鈴が、網戸越しに揺れている。
香里が気づかないあいだに、母親が押し入れの奥から引っぱり出してきたのだろう。
「あの風鈴は……」
香里は心の奥底ににしまい込んでおいた日記帳をめくった。
何年前のことだったか、河原で行われる花火大会で、香里がせがまれて買ったものだった。思い出しそうになる記憶を無理矢理押し込める。が、忘れようとするということは、結局思い返しているに他ならない。
香里は頭を二度、三度とふって、その名前をどこかに振り落としてしまおうとする。忘却はいつだって人に優しい。そのはずなのに、香里にはいつまでたっても救いの手を差しのべてくれない。
……きっと、永遠に。
電話口に注意を戻した。
「それで?」
《だからね、香里も行くの》
「……そんな気分じゃないわよ」
《だめだよ。もう祐一と北川君も誘っちゃったからね。わたしと香里が浴衣を着ていくっていったら、すっごく喜んでいたみたいだったし。だから、来なかったらイチゴサンデーだよ》
名雪が少しだけ早口になる。
「どういう理屈よ……」
《約束しちゃったもん。だから、ね?》
最近では、あまり珍しくなくなってしまった、ちょっと強めの、それでいて懇願するような口調。そうさせているのが誰なのかは、香里にも充分にわかっていた。
名雪が心配してくれているのを嬉しく思うのと、その心遣いをいらだたしく思う感情が、コーヒーに垂らしたミルクみたいに渦を巻いて混じりあっていた。
「仕方ないわね……。浴衣はともかく、顔だけは出すわ」
いつもと変わらないイルミネーションのはずなのに、商店街は落ち着きをなくしていていた。花火を見て、露店を冷やかすことが目的とわかる浴衣姿の人の群れが、駅から吐き出されては、溢れかえる水のように流れていく。
香里は人の流れからは離れたところで、ひとりたたずんでいた。
時計は名雪との約束の時間から十分を回っていることを示していた。朝ならば名雪が寝坊していると結論づけるところだが、先ほど電話で話したこともあって、それはないと否定する。
「こういうとき、携帯電話があると便利ね……」
考えてみたことはあるが、結局買わなかったものに思いを馳せる。いつでも連絡を取れる道具というのを避けたかったのだ。
もう少ししても来なかったら、公衆電話でも使おう……。
普段ならば、多少の遅刻は構わないのだが、きょうは祭りの日とあって人が多い。ひとりで立っていて、外見も行動も型にはまった男たちに声をかけられるのにもうんざりだった。こんな連中が、あちこちにゴミを投げ捨てて河原を、この街を汚くしていくのだ。香里はいらだたしさを込めて断定する。
もちろん、そんな連中ばかりが花火を見に来ているわけではない。ところ構わずいちゃつくカップルや、浴衣が死に装束になっていることに気づかない女連れもいた。
なぜそんな連中ばかりに目がいくのかといえば、香里が睡眠不足もあっていらいらとしているからだろう。思考自体もとげとげしくなっているのを自覚する。
「――お姉ちゃんっ」
そんな叫び声が香里の耳朶を打ち、はっとして香里はうつむき加減になっていた顔を起こした。
見れば、小学校に上がったかどうかという女の子と、それより幾分年上に見える女の子とが、仲良く手をつないで香里の近くを歩いていく。お揃いの浴衣が嬉しいのか、その幼い姉妹はにこにことしていた。その後ろには、両親であろうふたり連れがいた。
幸せそうな光景だった。
とても幸せそうな光景だった。
胸の奥で沈んでいたなにかがどろどろと渦を巻きかける。目をそらせば忘れられるはずだ。そう思って、香里は再びうつむいた。
しかし、瞳に映るのは、草履を履いた香里自身の足だった。それは、お揃いで買った……
「よう」
内向きのベクトルを持ち始めた思考を止めたのは、耳に馴染むようになって久しい声だった。
安堵のため息をこぼした香里の視界に、紺のシャツとジーンズというラフな格好の祐一が立っていた。名雪の従兄であり、同居人で、なおかつ恋人でもある。
香里は微笑みかけた頬を引き締めると、不機嫌そうな顔を浮かべてみせた。
「あら、相沢君。大遅刻よ」
「悪いな。おお、香里の浴衣姿なんて初めて見たぞ」
「それはそうでしょ。浴衣なんて冬には着ないものだし」
「ふむ。似合ってるぞ」
「ありがと」
胸の奥で軋むなにかを押さえ込むと、世辞を受け流すように曖昧な微笑みを浮かべる。
「で、遅刻の理由を聞きましょうか」
「名雪がな……」
祐一は香里から視線を外すと頬を掻いた。
首を傾げて、香里は周りを見回した。一緒にいるはずの名雪の姿がない。
「名雪がどうしたの?」
「夢のなかなんだ」
「……もう一回いってくれるかしら」
「昨日の晩、ほとんど寝ていないらしくてな。香里に電話したあと、ひと休みとかいってベッドにもぐり込んでそれっきり」祐一は首をすくめた。「揺すっても蹴飛ばしても踏んづけても起きなくてな」
「相沢君。きのうの夜、いったい名雪になにをしてたのよ」
香里は冷たい視線で祐一を睨みつけた。
祐一はおどけた表情を浮かべ、両手を顔の横で広げた。
「待て待て、俺はなにもしていないぞ。きょうの祭りのことで、あいつ、なにかずっと考えていたみたいだけどな。なにを考えていたのかは聞いていない。そのあげくに、出かける前に寝てしまったっていうのも世話はないけどな」
「……そうなの」
「で、北川はいまは帰省中だから連絡も取れなかった。実家がどこか知らないけど、連絡の取りようもないし、取る意味もないな」
「ふーん……って」香里は左の眉を上げる。「北川君、ずっとこっちにいないの?」
「ああ、出かけたのは二日か三日前だったはずだ。それがどうかしたのか?」
名雪との電話のやりとりを思い出して、香里は苦笑した。
「名雪がね、北川君も来るとかいってたから……。よっぽどあたしを連れ出したかったのかって思ったのよ」
「ほう。北川って、香里を呼ぶだしになるのか」
「……相沢君。なにか誤解してるでしょ」
香里は心のなかでばかとつぶやいた。
溢れかえった人の波に熱せられて、街の空気からは軽やかさや涼やかさといったものが失われていた。この街で暮らしていると、なかなか味わえない感覚だ。慣れないといってよい。
香里は隣を歩いている祐一を横目で見上げた。こちらにも慣れないと思う。
学校の外で祐一とふたりきりで歩くというのは、実のところこれが初めてだった。いつもは名雪、そして北川が一緒ということもあるし、そうでなくても、香里の方で祐一とふたりきりという状況を避けていたのだ。
名雪と香里は親友であり、祐一は名雪の恋人である。それで充分だった。
「香里とふたりっきりっていうのも珍しいな」
しばらく黙っていた祐一が、香里の心を読んだようにいう。
香里は笑みを浮かべてみせた。
「そうね……。滅多にないどころか、きょうが初めてかもしれないわね」
「なんでかな、それなりにつきあいは長いのに」
「それは相沢君がいつも名雪と一緒だからでしょ。あてられたくはないわよ」
「あてられる、ねえ……」
祐一は首をすくめた。マイペースな名雪に引っぱられているせいで、世間一般の感覚をなくしてしまったようだった。
香里は祐一から視線を逸らした。道路の両側に並ぶ露店の垂れ幕を見ていう。
「いつになっても、こういう店って、雰囲気も何も変わらないものね」
「そうだな。こっちも、俺が前に住んでいたところも、まるで変わらないな」
そんな話をしながら人ごみにもまれていると、祐一が突然立ち止まった。
「どうしたの?」
見ると、祐一は金魚すくいを見ていた。
「懐かしいな……。やってみないか?」
「どうぞ」
「よーし、任せておけ」
任せるもなにも、祐一がひとりでやりたいといっているだけなのに。
香里はくすりと笑う。
数枚の硬貨と引き換えに針金に和紙を貼ったものを受け取ると、祐一は水槽を泳ぎ回る無数の金魚を、親の仇かなにかのように睨みつけた。そんなに肩の力を入れて取れるものなのか。
気合いの声とともに、祐一は手を素早く動かした。
案の定、水に入れた瞬間に、和紙には穴が空いていた。
「はい、残念でした」
夜店の中年男は面白くもなさそうに笑うと、あまりに無惨な敗北に固まっている祐一から針金を受け取った。
「く、このまま負けてたまるか。男がすたる!」
そういって再び財布に手を伸ばした祐一の耳たぶに、香里は細い指を伸ばして、軽くひねりあげる。情けない悲鳴を上げた祐一にいう。
「もう、花火まであまり時間はないわよ。雪辱戦は花火のあとにしてちょうだい」
「……やむを得ん」
難しい表情で祐一は立ち上がった。腰に手を当てて胸を張り、高らかに宣言する。
「だが待っていろ、金魚よ。必ず俺が手に入れて、ぴろのプレゼントにしてやるからな」
「……ぴろって?」
「うちの猫だ」
その宣言に、金魚すくいをしていた幼稚園くらいの子が、泣きそうな顔になって祐一を見上げた。
「ばかなこといってないで」
香里はぽかりと拳で軽く祐一を殴りつけた。そして、涙目の子供に微笑みを向けて手を振ると、祐一の手を取って歩き出した。
金魚すくいから少し離れたところで、香里は祐一を睨めあげた。
「まったく、なにを考えているのよ、相沢君」
「場の和む冗談っていうやつだ」
「凶悪すぎるわよ。あの子、泣きそうだったじゃない」
そのまま露店に挟まれた道を進んでいると、思い出したように祐一が笑い出した。
「どうしたの」
「香里って積極的なんだなと思って。……なんなら腕でも組むか?」
先ほどから、ずっと祐一の手を取ったままだったのを、香里は忘れていた。一瞬頬が紅潮しかけたのを押さえつけると、香里は楽しそうに笑ってみせた。
「いいわよ。ついでにシャツのあちこちに色つきのリップでも塗ってあげましょうか。相沢君が名雪相手にどんな弁明をするのかが見物だわ」
「俺が悪かった……」
そういって祐一は香里から握っていた手を離した。香里は離れた温かさを惜しむように、空をそっと握りしめた。
「さて、適当に食べるものでも買って、見やすいところにでも陣取るか。……といっても、もう、そんな場所はないかもな」
「そうね……。あたしにいいところの心当たりがあるけど、行ってみる? ちょっと歩かないといけないけれど」
香里が案内したのは、河原の近くにある神社だった。
枯れた色の鳥居のすぐそばに、色あせた小さな本殿が立てられている。祭り自体のにぎわいから離れ、人通りが少ないにも関わらず、境内にもいくつかの出店が並んでいた。
その脇を急ぎ足で通り過ぎて裏山に登る。取り立てて道が悪いというわけではないが、土地の人間でなければ、夜には足を踏み入れない場所だ。
特に、香里が向かっているのは、これまで何度か夏祭りのときに来たが、一度も他人と出くわしたことがないというところだった。
途中で聞こえ始めた花火の打ち上げられる音に、多少早足になる。裏山という程度の小高いだけの場所を登るのは、高校生のふたりには楽なことで、すぐに目的地にたどり着けた。
「へえ……こりゃ、本当に見やすくていいな」
どんと全身に浴びせられる重低音。そして夜空に広がる美しい花火。開けた視界に、祐一が短く口笛を吹いた。
前にここへ来たときから、香里は変わらざるを得なかったのに、ここにはまるで変化がないのが不思議だった。
「相沢君、こっちよ」
記憶どおりに大きな岩が残っていた。丸くなめらかなそれは、ちょうどベンチのようになっていた。ここでいつも、夜店で買ったものを食べながら花火を眺めていたのだ。
香里がそこに腰を下ろすと、祐一もその隣りに座った。
岩はふたりで並ぶとぎりぎりというサイズだった。自然、香里は祐一と寄り添う形となる。
「ちょっと小さくないか?」
「……大丈夫よ」
浴衣の祐一と触れ合った部分から伝わる体温に、香里はわずかに目を細めた。
こぼれ落ちる感情を誤魔化すように、手にしていたたこ焼きを祐一に渡す。
「サンキュ、サンキュ」
ソースの香ばしい匂いが漂う。香里は祐一が開いた発泡スチロールのパックの中身に爪楊枝を刺して口に運んだ。どこか粉っぽくて、それなのになぜかおいしいと感じた。
もう一本入れてあった爪楊枝で、祐一もたこ焼きを食べる。
「おいしいわね」
「ああ……。なんか不思議だな」
夜空を見上げている祐一の横顔が、闇を背景に花開く光を浴びて、赤に黄色にと、めまぐるしく染まる。
景気が悪くなったためか、あの頃よりも打ち上げられる花火が少し少なく、物足りなく思った。そう、ここでふたりで並んで……
《すごいよねー、お姉ちゃん》
香里の脳裏に、一番近しく懐かしい声が蘇る。心の奥底にしまい込んでいた、いまはもういない少女の記憶。
思い出させないで!
香里は心のなかで壊れたスピーカーのように悲鳴を上げた。あたしには妹なんていないんだから。
しかし、その思いと裏腹に、しまい込まれた記憶が、決壊した心の壁を乗り越えて、奔流となってあふれ出した。
かき氷に差したストローをしゃりしゃりと音を立てて回している。
《アイスクリームとどっちが好き?》
《う〜ん、どっちもおいしいけど、いまはかき氷かな》ひとくち食べる。《祭りのときに食べるものって、普段とは違う気がしない?》
花火の照り返しで、白い肌を様々に染めながら笑う少女。
咲いてははかなく消えていく炎の華。
頭痛がする。
会話の積み重ね。
歴史。
薄れるだけのはずなのに……どうして消えてくれないのだろう。
「香里……どうしたんだ?」
気づくと、祐一が真剣な顔でのぞき込んでいた。吐息さえも触れ合う距離に気づくと、祐一から逃れるように、夜空を見上げる。
「なんでも、ないわよ……」
「なんでもないこと、ないだろ」
かすれた香里の返事に、気遣わしげな祐一の声が返る。
「あれが最後かしら」
追及する祐一の声を遮るように、闇色のスクリーンにいっせいに咲き誇る夏の華を見ていう。鼻の奥が熱い。喉が焼けつくようだった。どん、どん、と打ちつける火薬の炸裂音が、まるで拳だった。
「……終わった、な」
「そうね」
香里を気遣いながらも花火を堪能していた祐一が、ほう、とため息をもらした。無言で香里は立ち上がる。
「さ、戻りましょうか」
なにかを口にしようとしたが、香里の拒絶する雰囲気に祐一はなにもいえなくなったようだった。もどかしそうな顔をしながら立ち上がる。
並んで歩いた行きとは違って、香里は祐一の一歩前を行く。いまの顔を祐一に見られたくなかった。見られればお節介な祐一のことだ。きっとどうしたのかと問うだろう。香里にはその無神経な優しさが耐えられそうになかった。
祐一の気遣いは、どこに向けられているのだろう。
香里か? それとも、香里の親友である名雪か?
花火に引きずり出された記憶と、祐一の優しさとが、惨めなまでに混じりあっている。
後ろでなにか祐一がいっているのも耳に入らなかった。
いくら平坦で道になっているとはいえ、ここは夜の山なのだ。ところどころに木の根や岩が、でこぼこと不規則に地面から生えている。
迂闊にもそのことを思い出したのは、足を引っかけてけつまずいた瞬間だった。慌てて踏ん張ろうとするが、ふらついてしまったせいで奇妙な角度に足が下ろされる。草履が脱げ、足首に痛みが走る。
「香里!」
大声で叫んで、祐一が香里のもとに駆け寄ってきた。気づかないあいだに、それだけの距離が離れていた。
「転んだだけ。なんでもないわ」
立ち上がろうとして足を踏みしめると、体重をかけた右の足首から痛みが走った。思わず苦痛の声が漏れる。
「おい、香里。足をひねってるだろ……」
「気のせいよ」
「ばか、気のせいじゃないだろ」
しゃがみ込んだ祐一が、梢を通してもれる月光越しに香里の足を見る。祐一の手が足首に触れると、どうしても声をこらえきれなかった。
「ひねったな。これで歩くのは無理だ」
「……そうみたいね」
香里も渋々その意見を認める。杖代わりになる枝でも転がっていないかと、目を凝らして闇を見透かしてみるが、都合よくそんなものは転がっていなかった。
祐一が、香里に背を向けてしゃがみ込む。
「相沢君……?」
祐一はなにもいわない。
近くでは虫の声、遠くからは祭囃子が聞こえる。
誰も近くにいない。
名雪はいない。
自分が唾を飲み込む音。
頬が火照る。
香里は、ゆっくりと祐一の肩に手を載せた。
山道を一歩出ると、そこはもう人の住む場所だった。
いくつかの視線が、山から出てきた祐一が香里を背負っている姿に向けられた。自分たちはどんな風に見られているのだろう。落ち着いたはずの頬が再び紅潮するのを感じて、香里は祐一の肩に押しつけるようにして顔を隠した。
体を軽く揺すって祐一は香里を背負い直す。
「風鈴……」
再び歩き出した祐一の背で、香里はふと聞こえた音につぶやいた。耳元でのその言葉に、祐一はわびしい境内で広げられた店を見た。
素朴な木の枠にぶら下げてある色とりどりの風鈴が、そよぐ風に揺れ、幾重にも重なり合ったメロディを奏でていた。どこかわびしさを感じさせる風鈴の音も、これだけの数となると、切ないくらいに賑やかだった。
「お、いかにも夏って感じでいいな」
香里を背中に乗せたままといういささか恥ずかしい格好なのに、平然として祐一はその風鈴の並ぶ店に方向転換する。香里がなにか抗議の言葉を口にする前に、すでに店の前に立っていた。
「いろいろあるもんなんだな」
いっぱいに並んだ風鈴を見回して祐一がいった。
「そうね……」
香里もまた、風鈴に目を奪われていた。せがまれてあの子に贈った記憶が、また蘇る。
日常から、彼女の記憶を消し去ることには慣れたのに、ふとした思い出の断片は、簡単には忘れ去ることが出来ない……。
「香里は風鈴、好きか?」
どうなのだろう。もともとは好きだった。ただ、その音色を聞くことで、どうしても思い浮かぶものが辛いのだ。
「……嫌いじゃないわ」
香里が考えているあいだも、祐一は風鈴を眺めていた。
「買うつもりなの?」
「ああ、なんとなくそんな気になった。稀にはいいだろ」
「たまには、じゃないのね」
「むしろ初めて、だな」
背から降ろしてもらい、香里はベンチに腰掛けて祐一が風鈴を選ぶのを眺めていた。決め手に欠けるのか、いくつか手にとっては首をひねっている。やがて三つほど手に取ると、店主に一言断ってから、香里の方へ歩いてきた。
「どうしたの?」
「香里に質問。このなかではどれがいいと思う?」
手にしていた風鈴を香里の前にぶら下げる。等分に見比べて、香里は答えた。
「右の、露草の柄のが一番綺麗だと思う」
「ふむ……こいつだな。わかった」
あっさりとそれに決めて、祐一は店に戻っていった。残りのふたつを元の位置に戻し、さらに別の風鈴を手に取る。また香里に選ばせるつもりかと思いきや、その両方を買って戻ってきた。
「というわけで、香里にもプレゼントだ」
そういって、先ほど香里が選んだ風鈴を差し出した。
「相沢君?」
「きょうは無理矢理つきあわせたようなもんだからな。……嫌いじゃないんだろ、風鈴」
じっと風鈴を見つめて迷ったあと、ようやく手を伸ばす。
「……ありがとう」
ちりんちりん。
背中から祐一にしがみついていた香里は、指先に絡めた風鈴を振って鳴らす。家の軒先につるしてあったものよりも、どこか優しい音だと感じるのは、香里の心がそうさせているのだろう。
祐一の髪に、香里はそっと頬を押しつける。匂うのは汗と体臭だけなのに、不愉快とは思わなかった。
香里のその仕草に、祐一はなにもいわなかった。あるいは、姿勢をずらしただけだと思ったのかもしれない。
「ねえ……相沢君」
そっと耳元にささやく。
「……なんだ?」
即座にではなく、わずかに間をおいてから祐一は答えた。話を急かすわけでもなく、かといって興味がまるでないというわけでもない。そのテンポが心地よかった。
「楽しかったのに、忘れたいほどの哀しさをともなう記憶はどうすればいいと思う? そういう記憶があったら、相沢君ならどうする?」
「忘れる」即答だった。そのあと、わずかな間をおくと、「それが昔の俺の選択だったらしい。七年……もう八年かな。それくらい前までは、俺は毎年冬にこの街に遊びに来ていたんだ」
そんな話を名雪から聞いていた覚えがあった。
「そのときなにがあったのかわからない……。それまで何度もこの街に来ていたのに、その年の冬のことだけは、なにも覚えていないんだ。わからないけれど、きっとそれは辛くて悲しいことなんだと思う。忘れなければ、きっと心が保てなかったんだろうな」
「そう……。相沢君は、そのことを思い出したいと思うの?」
「……わからない」
ゆっくりとした祐一の歩調が、心のなかの揺れ動きを示すかのように、少しだけ変わる。
「思い出さなければいけないのか、いまでも俺にはわからないんだ。もちろん、名雪は思い出して欲しいんだろうけれど……そのことを忘れようとした俺がいるのも、やっぱり本当だと思うから」
名雪。
親友の名を耳にして、香里はそっと目を伏せた。仕方がないとどれほど自分にいいわけしても、後ろめたさと胸の痛みを感じる。
この想いも、記憶も、デジタルデータみたいに簡単に消せるのなら、どれだけ人間は楽に生きていけるだろう。
「なあ、香里。香里がなにを悩んでいるのかわからないけどさ、あんまり名雪に心配をかけるなよ」
「……ええ」
優しい言葉のはずなのに、それがナイフのように香里を傷つけていると、祐一は気づかないだろうか。香里は唇を噛んだ。
「あいつ、そのせいでいろいろ頭をひねっているみたいだしな……。それに、俺だって心配だ」
「うん……わかってるわ……」
指先の風鈴を鳴らす。きっと今夜、自分はこの風鈴を自分の部屋の軒先に吊すだろう。そして、その鈴の音を聞きながら眠るのだろう。忘却を願い、浴衣越しの体温の記憶を振り返りながら。
揺れる香里の指先で、風鈴が哀しく鳴り響く。家の灯りが見えるまで、香里はただ風鈴を鳴らし続けていた。