曇った窓硝子を隔てた向こう側では、灰色の空から粉雪がゆっくりと螺旋を描きながら舞い降りて、凍りついたコンクリートの上に積もっていた。ときおりアスファルトの上を行き交う車が大気を乱し、雪の流れが重力に逆らって躍る。
昼下がりの空の下で、鉛色の雲越しの弱々しい陽光に映える世界は、白く染まっていて、気温以上の冷たさを感じさせた。
寒さを体感として知らない人間が映像越しに見れば、それは穏やかで、ひどく幻想的な光景に見えるのだろうが、日々の生活の一部として組み込まれている人間にとっては、むしろ困難、そして死を連想させる。
かつてに比べればある程度は進歩した技術力があっても、寒さが死に直結することには変わりがなかった。
書架に向かい手にした文庫本を開いたままぼんやりと雪の躍る様子を見つめていた香里は、ダークグレイのコートに身を包んだ少年が、凍った道の端を、どこかぎこちない調子で歩いているのに気づいて、その表情をわずかに動かした。
彼の名前は相沢祐一という。二年生の冬に引っ越してきて以来の香里のクラスメートだった。
《結局さ、本当の寒さとその怖さを知らない人間にとっては、雪は綺麗なもの、楽しいものでしかないんだよ。ほら、テレビを通したってこの寒さなんて伝わらないだろ。それに結局マスメディアってやつの仕事は、事実を伝えることじゃなくて、受け手が期待する虚構を作り上げることだろ。雪が積もることで費やされる労力も、寒さの怖さも伝えないで、ただ綺麗な銀世界だけを伝えるだけだから、雪国に憧れているやつは結構いたぞ》
祐一から聞いた台詞を思い出した。祐一が転校する先を聞いたときの、昔の街の友人たちの反応である。
もちろん、そんな想像力が欠如した人間ばかりではないだろうが、体験してみなければわからないものもあるものである。当の祐一も、昨年は七年ぶりに経験するこの街の冬に悲鳴を上げていたのだ。
香里が注意を戻すと、祐一は歩道のくぼみの雪が踏み固められたところに足を滑らせて姿勢を崩しかけていた。危うく転ぶかと思われたが、その場でなんとかバランスを取って、転倒はまぬがれた。
それをじっと見つめていた香里はふっと吐息を洩らした。
その場でなにか照れ隠しの悪態をつぶやいている祐一と香里の視線が、本屋のけむったウィンドウ越しにぶつかった。いつの間にか頬をほころばせていた自分に気づいて、香里は表情を取りつくろった。
祐一は頭をひとつふたつ掻く仕草を見せると、香里がいる店に足を踏み入れてきた。
唸るような機械音とともに自動ドアが開くと、入り口近くに立つ香里のもとまで突き刺すような外気が吹きつけて、緩やかに波打った髪をわずかに揺らした。必要以上に強い暖房にいささか汗ばんでいた香里には、むしろ涼やかで心地よいと感じられる冷気だった。
まっすぐ香里に向けて歩いてきた祐一に、香里は先に声をかけた。声音にはまだわずかな笑いの残滓があった。
「久しぶり。それにしても、相変わらず冬には慣れないのね」
「自分から両手をあげて誰かと仲良くするのは苦手な性格なんだ。香里は予備校の帰りか?」
香里は頷いて肯定した。
「そっか。医学部に入るのって大変らしいからな。がんばれよ」
祐一の言葉どおり香里は医学部を目指しているのだが、私立の医大は学費がとんでもなく高く、ちょっとした奨学金を貰った程度では進むことはできそうにもなかった。
一方、国立の医学部といえば、学費はそれなりに高いものの、支払えないほどの額ではない。ただし、それゆえにトップクラスの成績を収めている香里からしても難関だった。
模試などから判断して九割方受かるだろうとは思えたが、それでも余裕があるわけではない。だから、この冬休みのあいだは予備校の冬期講習に通っていたのだ。それで両親が安心できるなら安い代償だった。
「相沢君はどうしたの」
「ちょっと息抜きをかねてふらふらと買い物にな。さすがに冬休みのあいだは受験生らしく家にこもって名雪と勉強に明け暮れているんだが、こう毎日だと疲れるだろ」
「そう」
祐一の口から名雪という名前が出たのを耳にして、香里の胸の奥に密やかにしまい込んであるなにかが、確かに軋むような音をたてた。
名雪というのは、香里の中学時代からの友人で、祐一の従妹かつ同居人である。
そして、祐一の恋人でもあった。
内面に渦巻いた感情の渦を、水面下で動く水鳥の足のように無表情で隠して香里は訊ねた。
「調子はどうかしら」
「聞かないでくれ。俺の人生は受験勉強なんていう些末なものに左右されるほど、軽くも単純でもないんだ」
「思いっきり別の人生を歩むことになる気がするけど」
「うぐぅ」
「……なによ、それ」
「食い逃げ娘の必殺技だ。こういえばロリコンのたいやき屋の親父をごまかせるみたいだぞ」
それから香里の手元に注意を向けた。
「なに読んでるんだ?」
「あー、その……、恋愛もの、かしら」
香里はいいよどんだ。ちょっとどころでなく入り組んだ三角関係が、四角関係にまで発展してしまったという筋書きの恋愛ものなのだが、口にするには抵抗があった。それゆえにほんのわずかに話題の方向をそらす。
「中学生のころに買ったはずの本なんだけど、ものすごく好きだったのに間違って捨てちゃったのか、どこにあるのかわからなくなったのよ。それをいま見かけてちょっと懐かしくなったの」
「恋愛小説ねえ……」
「あ、馬鹿にしたでしょ」
そんな風にしばらく他愛のない話に興じたあと、時計を気にしてから祐一が訊ねた。
「ところで香里。あさってはクリスマスイヴだっていうのに、こんな辺鄙な本屋でひとりさびしく小説を読みふけっているということは、いま思いっきり暇しているってことだよな?」
「……なにかものすごく引っかかるいい回しだけど、そのとおりよ」
「そりゃちょうどよかった」わずかに目元をとがらせた香里に頓着せずに祐一は頷いた。「買い物に行きたいんだが、つきあってくれないか?」
「買い物……?」
どのみち、家に帰っても机に張りついて勉強をする以外の選択肢は存在しないのだ。たまには息抜きもいいだろう。構わないといいかけて、ふと思いついて問いただした。
自覚があるのかわからないが、祐一という人格には、ときどき突拍子もないことをいいだす悪癖がある。いつだったかに連れていかれた世界の爬虫類展のような妙なところに、再びつきあわされてはたまらない。
「相沢君がなにを買うつもりなのか、それ次第ね」
「……実は考えていない」
「予想どおりの、予測できない返事ね」香里は口元を斜めにすると、「商店街をぶらぶらと歩こうっていうわけじゃないんでしょ。なにか目的でもあるんじゃないの?」
「ああ。名雪の誕生日プレゼントを買うのをすっかり忘れていたんだ。で、それを入手するというのが今回の作戦の概要だ。わかったかね、美坂隊員」
「はいはい。そのプレゼントの相談に乗って欲しいというわけね。いいわよ」
意識しておどけた表情を浮かべると、肩をすくめてみせる。香里の返事に祐一が表情をゆるめるのを見計らってつけくわえた。
「百花屋のケーキセットでね」
祐一は大げさなほどにがくりとうなだれた。
クリスマスを目前に控えているせいもあってか想像以上ににぎわった店内を、ショーウィンドウ越しに見渡して、香里が想像したとおりに祐一は表情を引きつらせた。
香里が予想していたとおり、近隣の中学や高校の制服に身を包んだ少女たちが、手狭な店のなかでひしめきあっている。
なかには片手の指で数えられる程度の男の姿もあったが、その誰もが祐一と同じように、いかにも場違いなところに来てしまったという困惑の表情を浮かべていた。
「な、なあ……香里……。本当にこの店で選ぶのか……?」
「もちろん。名雪ってこういうかわいいものが大好きなのって、相沢君だって知っているでしょ? だったらファンシーショップなんて最適じゃない」
「あー、確かに、まあ……」
否定はできないが、だからといって肯定したあとを考えたくもないという表情で祐一はうなずいた。言葉の節々から、いかにも気が進まないという気分が漂っている。
「というわけで入るわよ」
香里はぐいっと祐一の腕に自分の腕を絡めると、思いっきり引っ張った。うろたえた声を上げた祐一にいたずらっぽい笑みを向ける。
引きずられるように歩き出した祐一は、香里に視線を向けると、ため息をついていった。
「香里……楽しんでいるだろ」
「もちろんっ」
店のなかはいかにも女の子らしい甘ったるい匂いが何種類も入り乱れてむせ返るほどだった。
数人ごとの小さなグループごとにさまざまな品を手にとっては、きゃあきゃあと黄色い声で騒いでいる。
男の存在を全身で拒否している店内に祐一が渋面を浮かべているのを無視して、奥にあるぬいぐるみが並べられている棚へ、人の波にもまれながら歩いていった。
「ずるずるずる」
「なによ?」
「ぬいぐるみを買うのはやぶさかではないが、ここに足を踏み入れるのには躊躇しているという、純情な少年の複雑な心を遠回しに表現してみた擬音だ」
「純情な少年? 誰が?」
「うぐぅ」
「よくわからないけれど、相沢君が使ってもかわいらしくもなんともないのは確かね」
「……うぐぅ」
棚に目をやると、それこそ数えられないほどのぬいぐるみが、ところ狭しと並べられていた。イルカ、猫、犬といったありきたりのものから、アニメかゲームだかのマスコット、果てには単なる毛玉の塊にしか見えないものまであった。
「名雪、猫とカエルが大好きだったわよね。だったらそのどちらかにするのが妥当なところかしら。もちろん、ほかのものにするという選択肢だってあるわけだけれど……」
「それなりにかわいいやつなら、なんでも喜んでくれそうだが……」祐一は自由な右手を顎にあてた。「カエルはやめておこう。あいつにはケロピーがいるからな」
「じゃあ猫にする?」
「ま、それでいいだろ。奇をてらうのは、ほかの機会に譲るとして」
そういいながら祐一は香里と組んだままだった腕をほどき、愛嬌のかけらもない毛玉の塊を手に取った。
「……十分奇をてらってると思うけど」香里はそっとため息をついた。「だいたい、それ、五十万するわよ」
「……マジか?」
なんだかんだともめながらも、祐一はそれなりにかわいらしい猫のぬいぐるみに決めた。小さな子どもほどはあるサイズのそれをレジに持っていくために抱きかかえてから、祐一はため息をもらした。
「……これを持って街を練り歩くのか、俺は」
「相沢君が決めたんでしょ」
くすくすという香里の笑い声を聞きながら、解決策を求めるように祐一は視線を泳がせた。その先にアクセサリを並べた陳列棚があった。
巨大なぬいぐるみを抱えて商店街を歩くのがよほど嫌なのか、その棚を目にした祐一はぐっと握り拳で提案した。
「あー、あのなかになんかプレゼント向きのものってないか?」
「そうね、あるかもしれないわ」残念そうに香里はいう。「見てみましょうか」
香里の表情を一瞬訝しんだように見て、祐一はなにかに気づいたように憮然とした表情でいった。
「香里……。あそこに小物がおいてあること、知っていてわざと黙っていただろ」
「さ、行きましょっ」
その問いを無視して香里は再び祐一に腕を回すと、アクセサリの飾ってある棚の方へ元気よく歩いていった。
口いっぱいに広がっていた、生クリームの甘さとイチゴの酸味が、湯気を立てた褐色の液体に溶けあって流されていく。
香里は安物の白いカップを皿に戻すと、心ここにあらずといった様子でテーブルに目を落とし、一言も喋らない祐一を見つめた。
祐一の前に置かれたコーヒーカップは、一度も口をつけられないまま、虚しく湯気を漂わせていた。
目の前の赤いカチューシャに見入ったまま、祐一は放心していた。傾きかけた弱い陽光を浴びているにもかかわらず、心なしか顔色が悪いようにも感じられた。
あの店でこのカチューシャを見かけたときから、祐一の様子がおかしくなったのだ。それ以来、香里がなにを話しかけても、聞いているのかいないのか、焦点のずれた答えしか返ってこない。
このカチューシャのなにが祐一をそこまで引きつけるのだろう。訝って香里がじっと観察してみても、なんの変哲もない安物としか見えなかった。だとすれば、これは祐一の心の問題なのだろう。香里は断片的に伝え聞いた祐一の過去を思い浮かべた。
詳細は知らないが、八年前、最後に祐一がこの街に遊びに来たときになにかがあったということは、祐一と名雪の会話からうかがうことができたし、その思い出の切れ端をふたりから聞いたこともあった。
《わからないけれど、きっとそれは辛くて悲しいことなんだと思う。忘れなければ、きっと心が保てなかったんだろうな》
自分自身の言葉どおり、いまでも祐一はその年の冬のことを覚えていないらしい。一種の自己欺瞞といってもよいが、その悲しいなにかがなかったことにすることで祐一は自分の心を保ったのだ。香里はそう推測した。
香里にはそれほどまでに沈みこむほどの悲しい体験はなかったが、漠然とその心理を想像することができた。逃げる場所があるのなら逃げてもよい。それは恥でもなんでもないと思う。特に、大切な人間の死を幼い小学生が受け止めることなんて難しいだろうから。
「……え?」
ガチャリ。
目の前で空になったコーヒーカップと皿が音を立ててぶつかった。
近くを通りがかったウェイトレスが、陶器と陶器がぶつかる音を聞いて顔をしかめたが、香里はそれに気づかなかった。それどころではなかった。自分の思考に疑念があった。
なぜ祐一が心を閉ざした原因が、人の死にあるなんて断定したのだろう。本人さえ覚えていないはずのことを、無関係の香里がなぜ決めつけることができるのか。
いや、それはきっと偶然だろう。香里は乱れた鼓動を感じながら冷静にあろうと努める。大切な人間の死というものが衝撃的なのは当然のことだ。だから、記憶を失うほどの出来事が、人の死によるものだと推測してもおかしいことはない。
そう、おかしいことはないはず……。
だが、無関係でないとしたら。
その思いつきに、香里は身を震わせた。
思い返してみても七年前になにかがあったという記憶はないし、記憶が抜けているという違和感もなかった。だが、たとえ違和感がないとしても、そうあるのが自己欺瞞というものだろう。
自分の想像、否、妄想に近いものがもし真実だったら。祐一と自分が、祐一と名雪と同じように、七年もの昔からの絆を持っていたとしたら。もしそうだったら、なにかしらの変化があるかもしれない。
そんな妄想を抱いたあとに香里は顔をしかめた。逆に過去の出来事が決定的にふたりを引き離す可能性だってあることに気づいたからではなく、自分の未練というものを認識したからだ。
名雪のような女の子が、自分よりも男から人気があるのはよくわかる。
かわいいけれど、遊んでいるという感じではない。どこかぼんやりとしていて、変な飾り気もない。そして大抵の人間に対して優しく振る舞える。どこか幼く、美少女であっても色気はない。純真そうで、男からすれば《手に負えるだろう》と希望的観測を抱きやすいタイプなのだ。
名雪に対してなにか含むものがあってこんなことを考えているわけではない、と思う。男の女性観についての、単なる一般論だ。
……どこがだろう。
自分に向けて冷笑を浮かべた。祐一が名雪を選んだという事例を一般論にして、自分の嫉妬を理屈にしようとしているだけだ。
いま自分がどこにいるのかを忘れて、香里は思わず失望の言葉をつぶやいていた。
「醜いな、あたし……」
「……香里」
自己嫌悪に沈みゆく思考に歯止めをかけたのは、香里を呼ぶ祐一の声だった。見れば、手洗いにでも行って戻ってきたのか、荷物を持たないままテーブルの脇に立っていた。祐一は椅子に座ると、脇にまとめてあった荷物をたぐり寄せながら訊ねた。
「もういいか?」
「あ、うん……」
相手にそのつもりがないとわかっていたとしても、本当の聖夜には名雪と過ごすことがわかりきっている祐一と、一足早くクリスマス気分を味わってみたかった。そんな馬鹿みたいな願い。
けれど、それは果たせなかった。
名雪の、親友の恋人を好きになってしまい、さらには名雪の知らないところでつまらない画策をしている自分が悪いのだ。重く湿気た雰囲気は、きっと卑怯者に下された罰なのだろう。
「……やっぱり、あたしって醜い女……」
会計を済ませて外に出ると、雪はやんでいた。建物と建物の狭間から、雲間からこぼれた夕陽が差し込んで、商店街の歩道と、かき分けられた雪を朱色に染めていた。風は昼間よりもいっそう冷たさを増していて、肌を切り裂くかのようだった。香里には慣れた風だったが、祐一の方を見ればはたしてひどく寒そうに首をすくめていた。
「さて、あたしはそろそろ帰るわね。ケーキ、ごちそうさま」
そういうと香里はとびきりの笑顔を浮かべた。開き直っているわけではないが、こうやって相手のイメージどおりの自分を演じて、祐一、そして名雪に対して自分の思考や感情を隠すのは慣れていた。
「あー」
ためらったように祐一は視線を香里からはずすと、あちこちにさまよわせた。なにかいいたげなその様子に、背を向けかけた香里は足を止める。
しばらくのあいだ視線をさまよわせていた祐一は、やがて雪の上から言葉を拾い集めたかのように香里に視線を戻していった。
「もう少し、時間あるか……?」
「そりゃ……」あさましいと自分のことを評しながら、香里は答えた。「帰っても勉強するだけだから、時間ならあるけど?」
理由次第でつきあうという意志を言葉のあいだに載せる。
その言葉に祐一は表情を崩した。ひどく久しぶりに見たと思える微笑だった。微笑みというよりも安堵に近い表情に、少しだけ香里の心が温かくなった。
「もう少しつきあってくれないか? きょうのうちに行っておきたいところがあるんだ。ちょっと遠いんだけど……」
「遠いって、どこなの?」
「墓参りだ」
街を隔てた彼方にある山々の織りなす稜線が、沈みかけた赤銅色の陽の光に、影絵の様に浮かび上がっていた。それはどこか寂しく、そして悲しい光景だった。
あるいは、丘の斜面にあるために、遮られることなく吹きすさぶ寒風が、躰のみならず心までも凍てつかせようとしているためなのかもしれなかった。
凍てついた風が頬を斬りつけるのもいとわずに、香里の数歩前をゆっくりと歩く祐一は、周囲を見回しながらなにかを探していた。
香里もまた周囲を見渡していた。その風景には、なぜか見覚えがあった。祖父母をはじめ親類はいずれも健在だったし、そもそもかなり遠い地で暮らしているから、ここに眠ることはないはずだ。ならば、どうして自分はここへ来たことがあるなんて思ったのだろう。
これがデジャ・ビュというものなのだろうか。自問してみたが、答えが出るはずもない。頭を軽く振ってから香里は訊ねた。
「なにを探しているの?」
正確には誰の墓を探しているのかという問いだった。
バスに揺られてこの霊園に来るまでのあいだ、祐一はほとんど無言をとおしていた。そのため、香里は祐一の墓探しを手伝えずにいたのだ。
香里の心臓が数度打ったのち、祐一は振り返らずに、分かり切ったことを答えた。
「昔の知り合いの墓だ」
「ひょっとして」香里は思わずバスのなかでリップを塗ったばかりの唇をなめた。「いつかに少しだけ聞いた八年前のことに関係あるのかしら」
「……そうだ」
心臓が早鐘を打ち出した。喫茶店での妄想が頭の片隅からあふれ出して、黒く濁った煙となって香里の思考を支配しかける。
「どうしてあたしを連れてきたの? 日を改めてでも、名雪と」
香里の言葉は途中で遮られた。
「いや、きょうじゃなきゃ……いまじゃなきゃだめなんだ。なんていうかな……。タイミングというか、勢いというか、そういうものに任せないとできないかもしれない。そんなことってないか?」
ほとんど沈みかけた赤黒い残光が、祐一の頬に影を投げかけている。
「もちろん、何年かしたら……ひょっとしたら、ほんの数日後かもしれないけど、変わる可能性だってある。ただ、いまの俺には勢い任せじゃないとできそうにないんだ」
「そんな大事なことに、あたしなんかを連れて来ちゃっていいの?」
「ああ……。香里がきょういっしょにいたっていうのはなりゆきだけど、そのときに思い出したっていうのは、それが流れだって思うし……。それに、正直いうと、俺ひとりで立ち向かえるか、自信がない」
「そう……」
歩調を早めて香里は祐一の横に並んだ。ちらりと祐一は香里に瞳を向ける。映った像を確認したのか否か、墓石に記された名を探すべく視線をそらした。
無言のときがふたりのあいだを過ぎていく。やがて祐一がぽつりと漏らした。
「……やっと、見つけた」
小さな墓石がそこにはあった。雪に埋もれてはいたが、ときどき誰かが訪れていたのか、周囲のいくつかの墓に比べると綺麗に見えた。
黙って祐一はその墓石の前に立つと、コートのポケットにしまい込んであった赤いカチューシャを取り出して、そっとその前に置いた。花束なり線香なりを持ってこればよかった。香里はわずかな後悔を覚えた。
黙然とたたずむ祐一の横で、香里は墓碑銘を読んだ。相当に暗くなってはいたが、なんとか月宮という姓が読めた。カチューシャを捧げたということは、女の子なのだろう。名雪はここに眠る女の子のことを知っているのだろうか。
そして感じるわずかな嫉妬。すでにこの世を去った少女まで妬んでいる自分が嫌になる。香里と月宮という少女を比べれば、祐一のなかでは少女の方がずっと比重が大きいのだろう。墓前に来てさえそんなことを思う自分が疎ましかった。
「無理にとはいわないし、いえないけど」
「ん?」
「八年前のこと……。なにがあったか聞いてもいい?」
その言葉を聞いても、祐一は身じろぎひとつしないでたたずんでいた。
踏み込みすぎたかな……と香里は悔やんだ。ここまでつきあっているからには聞きたいと思ったのだが、興味本位と、子供じみた独占欲がそういわせたことを否定できない。香里は謝罪の言葉を口にしようとした。しかし、それよりわずかに早く祐一は口を開いた。
「この街のはずれの森。昔、大きな樹が生えていただろ」
「……ええ。確か、木登りをしていた子どもが、そこから落ちて大けがをしたとかで、教育委員会だかどこかで問題になったっていう話を聞いたことがあるわ」
香里がその話を聞いたのは、その樹が切り倒されてからのことだった。転げ落ちたら危険なところは無数にあるのに、木の一本を切り倒してよしとする的はずれな思考に疑問を抱いた記憶があった。
「その落ちた子ども……。結局そのまま亡くなっているんだ」
それにも覚えがあった。こちらは話題にはならなかったが、新聞記事になっていた。ほんの小さな枠に押し込められた人の死。
静かに祐一はその思い出を語りだした。
月宮あゆという少女との出会い。
彼女の口癖。
大好きなたいやきの屋台。
森のなかの遊び場。
願いを叶える天使の人形。
そして、赤く染まる雪。
祐一の話し方は、香里に語っているというよりも、いままで記憶の隅に封印してほこりをかぶっていた大切な宝石のような記憶を取り出して、丁寧に汚れを取る作業といった印象があった。
それも、続く祐一の言葉で氷解した。
「そのあゆとの思い出を、俺はいまのいままで忘れていた。小学生の俺にとって、あいつが目の前で大けがをしたあげくに死んでしまった。それは到底受け止めきれることじゃなかった。だから、故郷の街であゆの死を母親に聞かされて……現実に心をつなぎ止めるために、すべてを忘れたんだ」
百花屋で香里が推測したとおりのことだったが、正解していたからといってうれしくなるものでもない。
「香里は、奇跡ってやつを信じるか?」
「……信じないわ。起こらないから奇跡っていうんだとあたしは思ってる」
「そうか……。俺は、その奇跡を目にした、と思う。そう……あれはたぶん、奇跡なんだろうな」
心の奥になにかざらついた感触があった。由縁のわからない不公平感。その正体を見極めようとした香里だったが、続く祐一の言葉に息をのんだ。
「あゆに……八年前に死んだはずのあゆに、俺は去年の冬に再会したんだ」
「そんな……」
とても信じられない話だった。
香里だけではなく、常識や理性というものをオカルトに浸食された人間でなければ、受け入れられない言葉だ。
「相沢祐一っていう知り合いと七年前から会っていないっていう月宮あゆが、同じ《うぐぅ》っていう口癖でこの街を走り回っているっていうよりは、現実的……でもないか」祐一は力無く笑った。「より現実的なのは、俺が発狂しているっていう方なんだろうけど……。さっき百花屋で電話をして聞いてみたら、確かに去年、秋子さんもあゆに会っていたよ」
「秋子さんも……」
「八年前に病院を手配してくれたのも秋子さんだったし、あゆの葬式にも出たそうなんだ。だから去年この街であゆとはちあわせたとき、ものすごくびっくりしていたよ。当然だよな、この世にいるはずのない人間に出くわしたんだから」
首をすくめる祐一の仕草が、普段どおりに見せようとする強がりをむしろ強調するかのようだった。
「あゆのやつ、俺が渡したはずのないカチューシャをはめてたよ。俺が渡そうと思って、でも、あいつが木から落ちて……。葬式のとき、秋子さんがあゆの棺のなかに入れてくれたって。だからつけてくれたのかな……。でも、俺はそんなことも覚えてなかったんだ。あのとき全部思い出していたら、ちゃんとお別れだっていえたかもしれないのに……」
墓石に向いたまま、祐一は頭を垂れてたたずんでいた。ほとんど山の彼方に沈みながら、なお残る夕陽が、祐一の表情に陰影を生み出していた。
泣いているのではないか――。そう思える表情の陰に、香里の口は言葉を紡ぎだしていた。
「……そうかもしれないけれど、でも、あゆさんは相沢君に会いたくてこの街に姿を見せたんでしょう?」
「え?」
「いまの話を聞いていて考えたんだけど、商店街にあゆさんがいつもいたのなら、秋子さんが気づかないはずはないと思うの。気づいていなかったからこそ、あゆさんと再会して驚いた。つまり、相沢君がこの街に来たからこそ、あゆさんは相沢君のいう奇跡で、短い間だけにしてもこの現実の世界にやってきて相沢君と遊んだんじゃないかしら」
「……そう、かもしれない」祐一は香里に弱々しい視線を向けた。
「それなら、たとえ相沢君が八年前のことを思い出せずにいたとしても、相沢君と再び出会って、一緒の時間を過ごすことができたというだけで、あゆさんは幸せだったはずよ。あたしはそう思うわ」
祐一は香里の言葉に顔をゆがめた。そして、香里から顔を逸らした。わずかな逡巡のあと、香里は祐一の背中から手を回して祐一を抱きしめた。
「悲しいなら……」
ささやき声とともに香里は腕に力を込めた。こうやって祐一の体温を感じるのは、これが何度目だろう。
空から舞い降りた粉雪が、白銀のように冷たい風とともに吹きつける。
やがて香里の耳に、押さえ込むような祐一の嗚咽の声が届いた。
「ただいま」
小さな声が家の廊下に響いた。キッチンから灯りは漏れていたけれど、香里を迎える言葉はなかった。のぞき込んでみても、母の姿はなかった。
ガスコンロはつけっぱなしだったから、家のどこかにいるのだろう。香里はあっさりと納得した。
制服から着替えようと思って、自室のある二階へ昇ると、奥の部屋から母が姿を現した。香里に気がつくとなぜか仔細ありげな表情を浮かべたが、それも一瞬のことで、すぐに声を投げかけてきた。
「遅かったわね」
「ちょっと友達と……」
語尾を濁して、香里は曖昧に微笑みを浮かべてみせる。母も微笑みを返してきた。
「そう。もう少ししたらご飯にするわね。早く着替えていらっしゃい」
「わかったわ」
階段を下りていく母をなんとなく見送って、香里は階段を上がったすぐそこにある自分の部屋に引っ込んだ。
扉の開閉にともなう空気の流れに、壁の小物掛けにぶら下げてある露草模様の風鈴が、ちりんと音を立てて鳴った。それこそなりゆきだけで祐一からもらった大切な品だ。
けれど、いまはその冬らしさがかけらもないその風鈴の音が名雪の代わりに自分を責めている気がして、香里はいらだった声を上げた。
「ああ……もうっ」
マフラーやらコートやらリボンやらセーターやら制服やらを、ぽんぽんと勢いよくベッドの上に脱ぎ捨てていく。少しくらいしわができたってかまわない。いまはそんな気分だった。
《お姉ちゃんを見習って、ちゃんと脱いだ服はハンガーに掛けなさいっ》
《うー、そんなこというお母さんなんて、嫌いだよー》
不意にそんなやりとりが心の奥から浮かんできた。母と……いったい誰の会話だろう。年のわりに幼いその声は、似てはいたけれど香里の声ではなかった。
年のわりに幼い……?
喫茶店で祐一の過去に思いをはせたときのように、自然となにかが心に浮かんでくる、奇妙な感触。頭の奥が鈍く痛んだ。なにかがおかしい。なにかが狂っている。ボタンをどこかでかけ間違えたみたいに、自分の部屋にさえ違和感があった。
「気のせいよ……」
声に出してみる。確かに正鵠を射てはいたが、祐一のことは結局自分とは無関係の出来事だったとわかったではないか。そう自分を納得させようとする。
「きっと、気のせい……」
もう一度つぶやくと、楽な格好に着替えて香里は自分の部屋を出た。
そこで自分の目にしたものに首を傾げた。二階の廊下の奥にある、先ほど母が出てきた部屋のドア。あんなところに部屋なんてあっただろうか。いままでこの家に住んでいて、気がつかなかったなんて奇妙なこともあるものだ。
理性が嗤う声が聞こえた。
十八年暮らして、ずっと目の前の扉に気がつかないなんてことが果たしてあるのか?
答えは否だった。
隠されてはいなかった扉だが……自分は気がつかなかった。その意味を無意識に香里は理解していた。つい先ほど、目の前の事実を理解できないという、記憶の欺瞞を目にしたばかりだった。
香里が記憶も意識も目をそらし続けなければならなかったもの。いまの自分がそれを受け止められるのだろうか。
ごくりとつばを飲み込んだ。けれど、足は止まらなかった。まるで魅せられたかのように、香里はそのドアに近づいた。
ひんやりとしたノブを握ると、ゆっくりと回す。扉を押して香里はなかに入った。廊下の電灯から差す光では、ほとんどなかの様子は分からなかった。香里は足下に気を配りながら、ゆっくりと足を踏み入れた。空気が少しほこりくさい。閉め切った倉庫のなかに近い、人が使っていない部屋のにおいだった。
部屋の奥へ進むと、手を伸ばしてぶら下がっている電灯のひもを引っ張った。わずかに瞬いてから、蛍光灯が部屋を照らし出した。
香里はゆっくりと部屋のなかを見回した。ひとことでいえば少女趣味の気配が漂う(たぶん)女の子の部屋だった。
本棚にはピンクや白の背表紙の、ティーン向けの恋愛小説と、見覚えのあるタイトルの少女漫画が並んでいた。
自分はここに来たことがある。
ずきり、ずきりと、鼓動にあわせて脳が鈍い痛みを発していた。呼吸が荒くなる。
「受け止めてみせるわよ……ね、相沢君……」
声として明確に空気をふるわせたのかわからない決意のあと、香里はゆっくりと視線を動かした。ベッドが目に映る。その枕元が褐色に汚れていた。近寄らなくても、それが古びた血の跡だということはわかった。
真夜中に苦しげな声をこらえながら血を吐く少女の姿が、心のなかに浮かび上がってきた。それを扉のところに立ち、黙って眺めている自分も見えた。
「嘘……あたし、そんなこと、してないわよ……」
冷たい笑いを浮かべた香里自身の顔が見える。
もちろん、幻影だった。自分がたたずむ姿を見られるはずがない。だが、その生々しさはどうしたことだろう。まるでその光景が現実にあったことのように見えるのだ。血を吐き、苦しみのたうつ少女が、怨念を込めて見上げた光景だというのだろうか。
ときを隔ててなお、思いが伝わるという奇跡――。
《お姉ちゃん……》
鮮血に染まった口元を憎悪にゆがめた少女が香里を睨めつける。その少女の顔が、香里にははっきりと見えた。
気がつけば香里はカーペットの上に崩れ落ちてすすり泣いていた。
「ごめんね、栞……」
なんて残酷な姉だったのだろう。妹である栞の病気と、その確定した死を受け止めることができなかった香里は、妹なんていないと自分を欺いて、栞を見捨てた。妹がいないと思えば、そのことで苦しむことはないからだ。
そして、栞の短い生涯の最後の一年間、香里は一度も栞の顔を見ることなかった。
そんな姉のことを、栞が先に見えた幻のように憎んでいたとしても、なんの不思議もなかった。
「ごめんね……ひどいお姉ちゃんで、ごめんね……」
どれだけのあいだそうしていたのだろう。涙でぐしゃぐしゃに乱れた顔のまま、香里は虚ろなまなざしで部屋のなかを見回した。
最後に香里がこの部屋に足を踏み入れたのは、栞に医者から聞いた余命を告げたときだった。あのときからもう二年が過ぎていたが、細かなものが増えたりはしていたものの、まるで栞がここで暮らしているのではないかと思いたくなるほど変わりがなかった。
壁際は綺麗に片づけられた勉強机のセットがあった。一番下の引き出しのところの落書きが、栞の趣味を思い出させた。
幼稚園のころに栞が描いた香里の絵が、なにかの賞をとったことがあった。そこに込められた愛情が、あるいは絵に対する栞の動機だったのかもしれない。そんなことが浮かび上がってきた。
机の上には読みかけのままに伏せられた小説がおいてあった。再生紙のカバーには、小さな手のひらの形が、錆びた血の色で残っていた。
栞は夕方に血を吐いて病院に運ばれ、そのまま昏睡状態に陥って帰らなかった。その死の直前にまで読んでいた本はなんだったのだろう。香里はそっと机の上の文庫本を手に取って表紙をめくり――息をのんだ。
それは香里がきょう本屋で手に取っていた懐かしい小説だった。栞に貸してそのままになっていたのをなくしたと思いこんでいた、仲のよい姉と妹が同じ人を好きになるという恋物語。ライバル視しながらも、お互いのことを助けあう姉妹の姿が好きだったことを思い出して、再び香里の瞳から涙がこぼれ落ちた。
「……栞、栞……っ」
文庫本を抱きしめたまま、心優しい姉妹の物語を願った栞に想いを知って、香里はただ座り込み、涙を流し続けた。